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【2019 輪廻転生】

『ゼロ年代の想像力』(宇野常寛)


たとえば、本棚の『動物化するポストモダン』は線を引きすぎてもうボロボロだとか、埃をかぶった『終わりなき日常を生きろ』と『ゴーマニズム宣言スペシャル 脱正義論』がまだ捨てられないとか(その下では『構造と力』がムシ喰い状態)、押し入れの『新世紀エヴァンゲリオン』VHS録画もいつか見直すつもりとか、そんな人は多いだろう。しかし21世紀もだいぶ過ぎた今、そろそろ古い思想書はその他まとめて大胆処分する時期かもしれない。そしてすっかりきれいになった本棚にポンと一冊、『ゼロ年代の想像力』。

と言いたくなるくらい、面白い本だ。私たちが直面する切実な困難とはいかなるものなのか、それは高度成長以降いかなる経過を経てそうなったのか、その最新というべき見取り図が示される。今年の書籍として(あるいは5〜10年単位でも)最大の収穫ということになるのではないか。

大きな物語(価値基準)が衰退し小さな物語が並立するポストモダン社会では、なんらかの小さな物語を自分で勝手に選ぶしかないのだが、その小さな物語に引きこもっていれば平和になれるという従来の主張は間違っていた。実際には、各自が小さな物語を成立させるために他の小さな物語を排除しあうバトルロワイヤルが余儀なくされてしまう。――2001年以降の私たちの状況を、著者はだいたいそんなふうに位置づけている。

何度でも繰り返そう。碇シンジ(引きこもり)では夜神月決断主義)を止められない。生きること自体がゲームへのエントリーとされる現代において、「引きこもる」こと、ゲームへの不参加を表明することは何の批判力も持たず、ただゲームの敗者となるだけであり、システムへの打撃にはなり得ない。今の世の中では、あえて碇シンジにとどまることすらも、「引きこもりを掲げる愚鈍な決断主義者」でしかあり得ないのだ。》(p116 夜神月は『DEATH NOTE』の主人公)

したがって、私たちに突きつけられた課題とは、平たく言えば、《「どうせ世の中勝ったものが正義なのだから」と開き直り、思考停止と暴力を肯定する態度にどう対抗するか》ということになる。

私たちは、多様すぎる選択肢の中(もちろん、これはあくまで単一化の進むアーキテクチャーの枠内での選択である)から無根拠を踏まえた上で選択し、決断し、他の誰かと傷つけあって生きていかねばならない。この身も蓋もない現実を徹底して前提化し、より自由に、そして優雅にバトルロワイヤルを戦う方法を模索することで、決断主義を発展解消させてしまえばいいのだ。》(p135)

ではそのヒントとなる「ゼロ年代の想像力」はどこにあるのか。著者が可能性としてまず挙げるのは、宮藤官九郎(脚本家)、木皿泉(同)、よしながふみ(漫画家)の三者だ。へえ〜けっこう意外! 

ここからは未読。どんな展開になるのやら。ものすごく楽しみ。

ゼロ年代の想像力 asin:4152089415