東京永久観光

【2019 輪廻転生】

日本沈没というか日本蒸発


映画『日本沈没』の昔のやつをみたら、藤岡弘の顔がまるきり劇画だったのでおかしかった。長髪、眉と目、鼻筋、分厚い口といずれもデフォルメが過ぎる。他の俳優陣と一緒にいると、ほんとに一人だけ濃い。大友克洋のコミック作品に力石徹花形満がまちがって入り込んだみたいなのだ。

ご存じのとおり大仰なストーリーでもあり、そのためかどうか、総理大臣役の丹波哲郎や科学者役の小林桂樹はもとより、他の人物もキャラがいちいち際だっている。車椅子で登場し手は震えすぐ咳き込む謎の資産家老人なんてのも、いかにも漫画だ。若きいしだあゆみも出てくるが、ほとんどバービー人形。さらに、竹内均ニュートン初代編集長)が登場し、政府首脳を前にマントル対流説を講義しだしたのにはびっくりしたが、先生のあの口調、眼鏡、仕草は、実在の本人にしてかつ「まんがアニメ的リアリズム」ではないか!

丹波哲郎といえば、少し前に映画『砂の器』もみた。やはり持ちまえの大仰な演技をいかんなく発揮していた。刑事としてコンビを組んだ森田健作がまた、大味というか青春ドラマ的というか学芸会的というか。

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日本沈没』は1973年、『砂の器』は1974年の公開だ。当たりまえだが役者はことごとく若い。また、30年以上も前のニッポンの風景がどちらにも挟み込まれている。こうして時の流れを確認すること自体が楽しくて、このような古い映画をみるのだろうか。なぜそんなことで心が安まるのか、不思議といえば不思議だ。

日本沈没』と『砂の器』は、最近になって映画とドラマがそれぞれリメイクされた。DVDを借りるならそっちの新しいのにしたらよさそうなものだが、新しいほうはそれほど見たいと思わない。これも何故なんだろうと考える。

自分たちをすっぽり包んでいたひとつの時代というものが、長い時を経て、今では小さな箱に収まり手に取って眺められる。鮮やかな刺激に満ちていた様々な物事ももはや古い写真の思い出となって定着している。それが心地よいのか。かなり後ろ向きの楽しみのようではある。

しかし、それだけでなく、最近実感することをまた繰り返すが、近代という大きな世界像を支えてきた懐かしの枠組みが今しも終わりかけているというのはどうも本当のようだ。そうなると人も国もいわば砂粒のごとく(あるいは株式相場のごとく)力学にまかせて流動するしかない。この世界がバラバラの個人の集積でしかなくなった日を想像しよう。今ある明瞭な地理や歴史の区分というものも、失われてしまうのかもしれない。

逆にもっと大昔、たとえば中世ヨーロッパや江戸時代の農民には、自分や家族が年をとる以外、時代の流れというものを何かによって感じることはできたのだろうか。「懐かしの××年代アイテム」はあったのだろうか。

あるいはまた、日本ほどはっきりした四季がないという砂漠や熱帯の暮らしを思い起こす。時間や時代の感覚もそのようにずるずるべったりにならないとは限らないのだ。(いやすでに、通勤とコンビニとネットの反復で時間が止まっている人も多かろう。途中TSUTAYAでDVD)

80年代には60年代が懐かしかった。00年代には80年代が懐かしい。では20年代には00年代が本当に懐かしく思えるだろうか?

それとも、ただ私が年をとっただけなのだろうか?

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日本沈没 asin:B0000A4HS4
砂の器 asin:B0017LFIMG