東京永久観光

【2019 輪廻転生】

「日本語が亡びるとき」+「このあいだ東京でね」その後


水村美苗「日本語が亡びる時」(新潮9月号)は、第3章に入ると語りのトーンががらりと変わり、いわば評論らしい評論になった。そこでは、西洋の人々が話したり読んだり書いたりするのに3つの言葉を使い分けてきた歴史が照らし出される。その3つは「普遍語」「現地語」「国語」として鮮やかに腑分けされ、それらがどう変遷したのか、何がその変遷をもたらしたのか、そしてその変遷とともに国民文学が奇跡的に成立したことについて、明瞭な位置づけと考察が重ねられる。最後に論者が思いを馳せるのはもちろん、非西洋でありながら西洋に遅れをとらず栄えることができた我らが国民文学だ。その賢くも麗しき日本近代文学が、ではどのように亡びようとしているのか。それをめぐり2つのことが指摘される。1つは、英語が唯一の普遍語として世界をいつのまにか覆い尽くしてしまったこと。そしてもう1つ、日本の文学が《一人で幼稚なものになっていった》こと。これはしかも英語の暴風とは独立に起こっていると論者は考えている。

そして以下のごとく厳しい断定がなされる。

今、人は、〈叡智を求める人〉であればあるほど、日本語で書かれた文学だけは読もうとはしなくなってきている。かれらは、知らず知らずのうちに、そこに、〈現地語〉文学の兆し=ニホンゴ文学の兆しを見出しつつあるからである。日本語で書かれたものの中で、よりによって、文学という言語空間が、いち早く、〈世界性〉から取り残された人のふきだまりとなりつつあるのを、どこかで鋭敏に感じ取っているからである。

(論者の整理からすれば、現地語とは普遍語でないのみならず国語でもないことになる)

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20081018#p1からの続き
◎新潮2008年9月号 ASIN:B001D16GDK
◎本になった→asin:4480814965


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同誌の「このあいだ東京でね」(青木淳悟も読み終えた。最後になって「私」という語り手がふいに現れるので、おやっと思った。

現在の東京でマンションを購入しようという場合に、人の頭のなかではこんなふうな実にさまざまな思いが駆けめぐるはずですね、といったことを、ひたすら淡々としかしもれなく端正に描写してみましたけど、何か? そんなすました表情が、その「私」の出現によって、ふっと浮かんできたような気がした。

たとえば、サッカーあるいは柔道といった複雑なルールや明白な勝敗をもったスポーツ競技は素晴らしい。それをワールドカップやオリンピックなどの高まりにまで積み上げ、国歌や国旗とともにその頂点を言祝ぐというのも感動的だ。そのためにアスリートたちは、心身のトレーニングを欠かさずスキルを日々磨いていくのだ。

しかし、そういうややこしい近代人的な叡智は全部抜きにして、たとえば皇居の周囲あたりを一人ひたすらジョギングし続けるのがただ楽しい、手足の筋肉や心肺機能を使うこと自体やそれらが向上していくこと自体がこの上なく面白い、という人もいるのかもしれない。そんなふうに小説を書く人もいるのかもしれない。

このあいだ東京でね