東京永久観光

【2019 輪廻転生】

黒沢清『トウキョウソナタ』(恵比寿ガーデンシネマにて)


映画館に着くまでぜんぜん別の本を読んでいて、ネオリベがどうとか社会システムがどうとか考えていたので、さあこれからまったく違う世界の始まりだなと思いながら、予想外にがらんとした館の座席にひとり沈み込んだ。ところが、香川照之演じる男が会社の総務課長でいきなりリストラされる話から始まったので、「なんだつながってる」と驚くことになった。しかも、新たな派遣人材としてオフィスに現れたのは、大連からきたいかにもな中国女性で、日本語も流暢に自らをPRする。かわりに香川の総務課長は、「佐々木さん、あなたはこの会社のために何ができますか」(趣旨)と、きょうび就職の話になると必ず聞かされるクソ台詞とともにポイ捨てされるのだ。

この10年ほどの社会をいくらか自覚的に生活してきて私は、20世紀と21世紀では世界が本当に違ってしまったと徐々に確信するようになった(私だけでないのはもちろんだ)。そうした同時代性の基盤をなす特殊な困難をまるきり感受しないところで作られているような表現は、けっきょくダメなんじゃないかと思ったりもしている。その点、この『トウキョウソナタ』、むしろその同時代性があからさまなほどで、意外なところで期待がふくらんだ。(映画や小説のレビューは先に読まず、評判やストーリーを周囲から聞かされる環境にもないため、今回もほとんどまっさらの状態でスクリーンに対面していることもある。この情報過多の状況にあって、なかなか珍しく幸福なことだ)

といっても、当然といういべきか、べつにリストラ批判、ネオリベ批判の映画が進行していくわけではない。

そもそも黒沢清の映画は、私はいつも核心が分からない。『回路』も『アカルイミライ』も『ドッペルゲンガー』もそうだった。そしてその分からなさが不気味な印象をかもしだす。『回路』なども、やはりどういう話かまったく知らずに見始め、ふいに起こる異変やじわじわ広がる恐怖を、知識や言葉でうまく処理できず、標準以上のショックを受けてしまったかもしれない。『アカルイミライ』も『ドッペルゲンガー』も、展開のぶつ切り感みたいなものが目立ってみえ、そもそもいかなる種類の映画なのか、どこから解釈を始めればいいのか、私には不明のままだ。

ところが今回の黒沢作品はやや毛色が違い、「ある平凡な一家のすれ違い」を描いている、みたいな評されかたをしているようだ。しかし実際はそんなすっきりきれいな話ではない。むしろこんな突飛な一家はない。小6の息子はピアノの天才児だし、大学生の息子は不自然なほど美男長身で、それでいておとなしく両親と同居している、かとおもうと急にアメリカ軍に入隊して日本を守るとか言い出す。それに、お母さんが小泉今日子である家なんて日本には一軒もあるはずがない。強盗に入られる家もそうはないし、しかもその強盗がうかつに覆面をとると役所広司だったなんてこともあるわけがない。すれ違いということについても、この家族はむしろ互いを心配し支え合おうとしているようにみえる。それぞれ自我が強く隠し事もしているが、だからといってべつに家族を無視してはいないし不必要とも思っていない。つまり私にはこれが「家族の崩壊と再生」の物語だとはあまり感じられなかった。

そのかわり今回もやっぱり、素知らぬ顔をしながらふっとおかしな方向に映画が転じていく奇妙さこそを味わうことになった。一番はもちろん、唐突すぎる強盗事件とそこから始まる小泉と役所の逃避行だ。といっても、今回はたしかに写実的な叙述が基調で、それほど劇的な逸脱は起こらない。しかしそのためにかえって、ささいな変調にもこちらは神経をとがらせ、よけいぴりぴりした。ちょっとした出来事に、笑っていいのか、驚くべきか、深読みすべきなのか、いちいち図りかねる。そして、このようにささいな変調だけが起こる映画というのは、もっと大変な変調が起こってもおかしくないし、逆にもう何も変調が起こらなくてもおかしくない。何でもありの舞台がそこに出現している。ただ結局のところ、外形的にはもうさほど大変な変調はなく収束し、そうして息子が音楽専門中学の入学試験でピアノ曲をまるまる弾くシーンを迎える。このシーンの意味や位置づけも言葉にしようとすると分からない。ただこのシーンが与えてくる感触の強度だけは莫大、というおかしな状態に持っていかれてエンドとなる。(あれはしかし、ドビュッシーピアノ曲が偉大なのか、黒沢監督の場面作りが偉大なのか、ちょっと疑問だ)

というわけで、不協和音なのは、この家族ではなく、この映画だろう。

したがって標準的な鑑賞法の見当がまたつかず、勝手に思ったことを書くと。この世紀に私たちはもはや自分が近代人であることを自分からも他人からも期待されない。つまり私たちはみなただの砂粒にすぎない。砂粒が無数に集まった全体としては性質もあり目的もあり歴史もあるが、一人一人はほんとに無意味な一粒一粒だ。そんな砂粒が生き甲斐を持とうなんて間違っている。ショッピングセンターで買い物するくらいの人生が関の山なのだ。そんな状況に私たちは何かできるのか。たとえば、苦しまぎれのなかで遭遇してしまった事故のようにでもいいから、日常に突飛な裂け目を見いだしてそこに飛び込んでみたらどうだ。なんだかそんな肯定的なヒントを与えられた気がしたのだが、大きな勘違いだろうか?

赤いコンバーチブルから ドアを開けずに飛びおりて ミニのスカートひらりで 男の子達の視線を釘づけ」。小泉今日子は1985年にそう歌った(作詞 秋元康)。http://jp.youtube.com/watch?v=9ZGNwvTW28I

長く生きるとは、アイドル歌手のやつれたお母さん役を現実に見ることを言う。だがそうした一般論はさておき、この映画で、小泉今日子ショールームの赤いオープンカー(プジョー207CCというらしい)を眺めているシーンで、私はどうしてもこの歌を思い出し、80年代にアイドル小泉とともに脳天気にバブリーに弾けていた頃とは、日本は時代が本当に変わってしまったのだと感じさせられた。そして小泉は、同じプジョーのこんどは紺の車で、役所にさらわれるようにしてどこかへ旅立つ。行き着いた暗い海辺のシーンは、それまでの住宅街や都会の風景にも増して、強烈に胸を打った。小泉の演技も頂点に達する。だがそんな小泉今日子を85年の私たちは想像するわけがなかった。それと同じく、こんな21世紀を私たちはやっぱり想像もできなかった。

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トウキョウソナタ 公式サイト http://tokyosonata.com/index.html
トウキョウソナタ DVD asin:B001RABG8C
ドッペルゲンガーを見て http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20031030#p1
アカルイミライを見て http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20030904#p1