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【2019 輪廻転生】

サケの気持ち、ヒトの気持ち、ブログの気持ち〜入來篤史


「サケ、命がけ産卵?」(アサヒコムより)
http://s04.megalodon.jp/2008-0518-1059-50/www.asahi.com/science/update/0518/TKY200805170239.html

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サケが産卵するとき「ジブン」「タマゴ」「ウム」といった捉え方をしているだろうか。

たぶんしていない。

われわれ人間なら、「自分」があり、それとは別のものとして周囲の環境があり、そこにたとえば「子ども」がいる。そうして「私が子どもを産む」と捉える。

サケにもたぶん性欲や食欲にあたるものはあるだろう。しかしそのときサケにとっての世界とは、そうした切実ではあるが漠としたカンカクにすっぽり覆いつくされているのではないか。そしてある河がそこにあればもう自動的に遡上してしまい、夢中で産卵してしまい、射精してしまう。そうして気がつけば、サケにとっての世界はすこぶる平穏もしくは終焉へと至っていた(つまり死んだ)、というぐあいではなかろうか。

サケには「この自分が感じている」とか「この自分が動いている」といった捉え方は成立していないということだ。つまり、サケには自己と外界の区分がない。

われわれからすれば「この自分」とたとえば「その飯」とは別物であり、したがって「空腹なのはこの自分である」「そこに飯がある」「この自分がその飯を食べる」と考える。しかし、サケには「ハラヘリ」とでも言うべき一様な状態だけがあり、そしてその状態が自ずと「オヨギ」や「エサクチノナカ」という状態へ、さらには「マンプク」という状態へと移り変わっていくだけ。

要するに、サケの世界には「コノからだ」も「アノえさ」もない。ただ「コレ」だけがある。「コノカンジ」の明滅や推移だけがある。

(カエルも似たようなものか。http://vision.ameba.jp/watch.do?movie=106633

サケやカエルやヘビ、もしかしたらネズミくらいもそうかもしれない。では、このように人間と他の動物を線引きできるとしたら、その根拠は何だろう。

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その根拠は、人間が目と手を共に自在に扱うようになったことにあり、それによって道具を使えるようになったことにある、といった明快な理論を知った。理化学研究所脳科学総合研究センターが10周年を迎えた昨年、『脳研究の最前線』といういかにもそのままのタイトルの総括本(上下巻)をブルーバックスから出した。上巻の第3章「知性の起源―未来を創る手と脳のしくみ」で、入來篤史という研究者がその論を展開している。(ちなみに上記は引用ではない)

ヒト以外の動物はこの世界をどのように捉えているのか。端的なまとめはこうだ。

《野生動物は、その過酷な生存環境の中で生命を維持するために、「状況」「主体」「行為」という構成要素を一体化させてきました。そして、それをほとんど自動的にかつ効率的に利用するために、「行為」を行う主体と客体を不可分なものとして「意思」や「心」を想定することなく、自然現象の一部として、「行為」を発現していました》(p172)

こんなことは、ふだん窓下の猫や水槽の金魚や台所のゴキブリをほのぼのと眺めているときには思いもよらない。しかし、言われてみればそのとおりかもしれない。

《つまり、動物の運動は、環境の中に組み込まれ、好むと好まざるとにかかわらず宿命的に最適化された、一連の「自然現象」の一部であると考えられるのです》(p140)

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では、ヒトはいかにして、このいわば自然な世界を、いわば人工的に「状況」「主体」「行為」に分節して捉えるようになったのか。

入來さんは、きわめて具体的なステップを2つ指摘する。

1つめは器用な手と精巧な眼の出現。ヒトを含む霊長類の一部では、手や指の骨格が変化し、また眼が顔の正面に移ったことで、自分の手のひらの動きが視界に入るようになった。その結果、手と目はみごとに連携しかつ巧妙に操れるようになったというのだ。

だいたい、大半の動物は自分の手足の動きを自分の目ではっきり見ることはできないのだという。それどころか、そもそも霊長類以外の動物では、自分の身体そのものの存在すら自分が直に眺めるのはむずかしい構造になっている。そう言われればそうだ! じつに重大な相違ではないか。

(我々はたしかに、目で見てかつ手で触ることによって「これは実在する」と初めて納得するところがある。また暗がりで手探りする手とは、まるで目のようでもある。)

ともあれ、この手と目の連携こそが、自己と外界の区別、言い換えれば、世界を「状況」「主体」「行為」に分割して捉えることの始まりだったということになろう。

ただし、これだけではヒトがもつような心はまだ生じない。そう入來さんは考える。サルなども手を巧みに操るものの、それは環境からの直接的要請に従って動かしているにすぎないと。すなわち、サルの行為はサケやカエルの行為に似て自然現象とみなせるということだろう。

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そこで2つめのステップ。それが道具の使用だ。

《しかし、様相が一変したのは、ヒトの祖先が、外界の事物を手に持ち、それを身体の延長として動かそうと、道具の使用をはじめたときでした。このとき、道具が身体の一部となると同時に、身体は道具と同様の事物として「客体化」されて、脳内に表象されるようになります。
 自己の身体が客体化されて分離されると、それを「動かす」脳神経系の機能の内に独立した地位を占める「主体」を想定せざるを得なくなります。その仮想的な主体につけられた名称が、意思を持ち感情を抱く座である「心」というものではないでしょうか》(p172)

《道具を使うとき、われわれはそれが身体の一部になったような感覚を持ちます。もはや道具は単なる外的物体ではなく、身体に内在化した外物あるいは外物に外在化した身体として、両者を融合する形で独特の表象を持つことになります。》(p162)

おおよそこう理解すればいいだろうか。道具という外部の物体を動かすというカンカクが基になって、自分の体という物体を動かしているというカンカクが初めて生じてきたと。さらには、自分の体という区分とは対になるものとして自分の心というカンカクが初めて生じてきたと。「私の心→私の体→外部」の順というより、これらは一気に生じたか、あるいは「外部→私の体→私の心」という逆順だったということなのかもしれない。

ともあれ、ここでのポイントは、手に持った道具があたかも自分の手と同じように感じられるという点だろう。でも、たしかにそう言いたくなるけれど、本当にそうなのか? ただの曖昧な思いこみではないのか?

しかしそこは脳科学総合研究センターなのである。入來さんは、ニホンザルに道具(熊手)を使うことを訓練したうえで、その脳神経系の活動を調べた。その結果。もともとサルにおいては、自分の手が届くような範囲の空間に何かが見えたときだけ、それに応じて活動する脳の部位があることが分かっている。ところが、熊手でエサを取ることができるようになったサルにおいては、その特定の部位の守備範囲が、自分の手だけでなく熊手が届く範囲の空間にまで広がったというのだ。しかも、熊手を道具としてではなくただ手に持っているだけの段階では、そのような部位の活動は起こらないという。

さらに面白い実験。われわれはコンピュータゲームのモニター画面で相手を殴ったりする腕を、あたかも自分の腕のように感じている。そこでサルにも、サルの手をリアルタイムで撮影しつつモニターに映してサル自身に見せてやる。するとサルはやがて、実際の手元を見なくてもモニターの手を見るだけで自分の手を動かせるようになり、熊手も動かせるようになった。そして例の脳の部位の活動は、やはりモニターに映った手および熊手の届く範囲の空間にも反応するように変化したというのだ。

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さて入來さんは最後に、短いけれど非常に刺激的な問いかけをしている。題して「心はどこへ向かうのか」。

《われわれの脳に宿る心は、次は何を創造し何処へ向かうのでしょうか。生物が今まで経験したことのない差し迫った新規の状況は、電子通信によって多数の心がリアルタイムでつながれたネット社会ではないでしょうか。そこでは、個々の「主体」の意思は身体から離れ、機能別にネットを介して相互作用し、千切れた自己の切れ端が仮想社会で共有され、融合されることになります。
 これまで、心と自己は物理的な脳と身体を介して統一されていました。ネットでつながれた近未来世界では、身体を離れ、電子社会を浮遊する自己はどうなるのでしょうか。「心」が身体を離れたとき、それは一体どこへ向かうのでしょうか? 科学技術と知性を持った人間の脳と心は、また新たな「何か」を創造するのでしょうか?》(p181)

心というのは物体ではなく現象と呼ぶべきたぐいの何かだろう。だからこそ、自己というものや意識というものは、自然現象からは独立した何かであるように、この世界とまるごと対峙するほどの何かであるように感じられてくる。心が、自分の体から発しているにもかかわらず、自分の体を外からコントロールする何かであるかのように感じるくらいは、私たちは朝飯前なのだ。

だから、サルやヒトが熊手に自らの心を投影するように変化したごとく、いつしかわれわれは、インターネットに分散して構築される表象や道具に自分の心を感じ始めても、不思議ではない。いやそれはSFではなく、たとえば私はもうこのブログは冗談ぬきで私自身だと思っている。このブログが壊れたり傷ついたりするとき、たぶん私の心が壊れ傷むだろう。
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ところで、サケやカエルやヘビやネズミなどの動物から、ヒトを含む霊長類へのジャンプを、入來さんは「自動詞的」から「他動詞的」への変化だとも言い表している。これまたとても感動的だった。

《それまでの動物は、自ら「動く」という「自動詞的行為」しか行えなかったので、動くものと動かされるものが自己の身体に一体化していたのですが、霊長類の身体運動はものを「動かす」という「他動詞的行為」をも担うようになったので、動かす「主体」である身体と、動かされる「客体」である身体外の事物が物理的に分離したのです》(p160)

他の生物が言語をもったなら、そこにも名詞や動詞や形容詞はあるのだろうか、もしも植物に言語があったらそれは形容詞だけだったりするのだろうか、と以前書いた。そこにつながってくるように思ったのだ。

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20080408#p1 

ちなみに、植物は脳はおろか神経すらもたない。だから常識的に考えれば植物には意識も言語も出現のしようがないとも言える。そういう常識をさておいて間抜けなことを書いてしまわないためにも、たまにはこうした脳科学の総覧本を読んでおきたいものでございます。


◎『脳研究の最前線』 asin:4062575701 
◎ 人間的「自己」の生物学的起源を探る(入來篤史http://www.soken.ac.jp/education/journal/no.10/doc/p14-19.pdf


▼その後、入來さんの新たな著作(専門書)を読んだ。
 → http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20090613/p1