東京永久観光

【2019 輪廻転生】

品詞〜チョムスキー本


http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20080408#p1

先のエントリー(上)に対して、「形容詞をもたない言語もあります」という指摘をいただいた。なるほど、そうだったか!

ためしにWikipediaをみる。次のように書いてある(どこまで信用していいのか私には分からないが)


 品詞 全ての単語は、いずれかの品詞に所属すると考えられる。(略)具体的な品詞の種類としては、名詞や動詞はどの自然言語にでもある品詞だと考えられており、第三以上の品詞にどのような種類を立てるかは、各言語ごとに異なる。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%81%E8%A9%9E


 形容詞 一部の言語では、形容詞に当たる語は名詞または動詞と区別されない。例えばアイヌ語では、形容詞に当たる語は動詞に含まれる。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A2%E5%AE%B9%E8%A9%9E


これらを読んでさらに思う。そもそも品詞っていったい何だ?

「はらへった」「あたまいて〜」「ショック!」

これらが動詞なのか形容詞なのか名詞なのかと考えると、そう明白でもないようで、面白い。少し違うかもしれないが「石板!」とはどういう意味かという問いもあった(ウィトゲンシュタイン)。相当違うが「夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ・・・」というのもあった(『家族ゲーム』)。語なのか文なのか詩なのか。

植物にもし言語があったら形容詞だけなのかも、とか書いたとき、こうしたものを思い浮かべていたようにも思う。

品詞という観点や、その結果見出された名詞や動詞や形容詞という分類自体が、言語の最も妥当な見方なのかどうかを問うことができる。英語などでこうした品詞の構造がいったん出来上がったので、残りの言語にもひたすらそれを当てはめた、ということもありうる。

そもそも人間に初めて芽生えた言語はどういうものだったのだろう。それはだれも知らない。それどころか、たとえば縄文時代、いや奈良時代平安時代ですら、書き物はべつとして、人々がちまたで交わしていた言葉にいかなる文法が存在したのか、どこまで分かっているのだろう。さらには、やがて文法というものを自覚したことによって、実際の言葉のほうがむしろそれに引っ張られて形を整えていった側面もあるのではないか。

今ある言語には今ある文法とはまったく別の方式のルールが隠れていて、そのルールを当てはめたら今ある文法と同じくらい明瞭に今ある言語を説明できた、などということはありえないのか。

猫やカブトムシや植物や地球外知性がもつ言語の多様性を考える前に、自らがもつ言語の多様性そして自らがもつ言語の説明の多様性を考えることを、忘れてはいけなかった。

もちろん、我々の言語はすべて結局この文法によって説明するのが最適だったということが、はっきりする可能性もある。さらには、ここが重要だと思うのだが、我々の言語だからたまたまこの文法による説明が当てはまったというのではなく、およそ言語というものがあれば必ずこの文法による説明が原理的に正しいのだ、なんてことがいつか明らかにならないとも限らない。その時こそ、地球内や地球外の生き物とのコミュニケーションも可能性が高まるのだろう。もちろんそうでない可能性もあろう。そうであってもそうでなくても、どっちもすこぶるエキサイティングな話だ。


 *


・・・というふうに戯言ばかり書いているが、少しまじめに読書もしている。

子どもが言語の文法をいとも簡単に身につけるのは、その基盤となる能力ないしは機能と呼べるものが脳のなかに生得的に実質的に備わっているからだ。チョムスキーが唱えてきたのはざっとそのようなことだったと思われる。

要するに、言語は本能であり、その原理は脳にある。これは、歩行は本能であり、その原理は脳にある、というのと似たことだと思われる。

このとき、歩行のほうは目に見える働きとして現れるせいか、その原理ということやそのために脳が何をしているのかということを想定しやすい。ところが言語となると、その原理が脳にあるといっても、いったい脳に何があればいいのか、どうも分かりにくい。

じゃあチョムスキー自身はそこのところを具体的にどう述べてきたのか。それが知りたい。

その流れで読んだのが、ジャッケンドフ『心のパターン』だ。http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20080323#p1

その本についてもっとちゃんと書けばよいのだが、そういう本筋はつい後回しになりがちで(仕事みたいだ)、ふと横道にそれて考えたことが先のエントリーとなった。

今度は『生成文法の企て』(福井直樹・辻子美保子訳)というチョムスキーへのインタビュー本を手にしている。こちらも定評ある一冊で、まずその「訳者による序説」を読んであっと驚いた。ジャッケンドフの本はとびぬけて親切だったが、こちらはとびぬけて明晰だ。インタビューに入っていない段階からこんなことを言うのはおかしいが、言語の正体がとうとうマジに解き明かされるのではないか、というほどの期待をもたせる。ASIN:4000236385 (文庫 ASIN:400600253X

上に書いた「チョムスキーは言語の原理を一体どのようなものと考えてきたのか」。その一端(あくまで一端だが)を覗いたと個人的には確信させる一節が、この序説のなかにあった。じつはこれもかなり横道に入るのだが、非常に面白かったので引用しておく。

あるときチョムスキーは「我々が数を数えられるのは何故か」と問いかけたという。私たちは数を限りなく数えられるが、これは「離散無限」という概念に基づいた非常に特殊な能力だとしたうえで、以下のように説明が続く。


離散無限の概念(それを可能にするメカニズム)が全ての人間に生物学的に組み込まれているがゆえに、数を習っている子供が、ある数nまで1、2、3、…、nと習っても、そこで「自然数」が終わりになるのではなく、どのようなnに対しても必ずn+1が存在することを無意識に想定し、「自然数の無限性」を自然に受け入れるのである。そして、この種の離散無限性を示す「(自然)数」の概念は、どうやら人間に固有の特性のようである(1から例えば17まで「数え」られる能力と、任意の自然数nが与えられた時、常にn+1という新しい自然数を作ることができる能力とは、全く別の能力である)

それでは、数機能はどのようにして人間(の脳内)に発生してきたのだろうか。》(略)

チョムスキーは、「数機能は何か別の認知能力の副産物なのではないか」という仮説を提示する。それでは、その「何か別の認知能力」とは何かと言うと、それは言語能力である。右に、数機能の本質的特性は離散無限性であると述べたが、言語機能も正にこの離散無限の特性を有している。例えば、「文はn個の以下の単語で構成されていて、単語の数がn個を超えたらもはや文ではない」(nは任意の自然数)などという原理に従う自然言語は一つもなく、どの自然言語を見ても必ず、文の長さを原理的に無限に長くできるメカニズムが備わっている。その上、有限でもなく、連続(的無限)でもなく、離散無限であるというこの特性は、どうやら人間のみが有していて、かつ、言語機能と数機能にのみ現れているように見える。そして、言語機能の起源は人類機能の進化上かなり古く、かつ文化に関わりなく顕在している。そうであるならば、離散無限性を中核とする言語機能が発生した段階で、離散無限を可能にするメカニズムのみを抽出し、言語に固有な他の諸特性(言語が概念と音を結び付けるシステムであることに由来する諸特性)を捨象する形で数機能が脳内に形成され、外的条件が整えば使用可能な状態で潜在していたと考えることは、決して無理でないように思われる。


いきなり難解だったかもしれないが、要するにチョムスキーは、数える能力の基盤には言語の能力があると考えている。

先のエントリーで「言語は普遍なのか」「数学は普遍なのか」と問うたが、思いがけずその2つが出会っている。運命的。それらの基に「離散無限」という概念があるとすら述べられている。

ということは、言語の基盤が脳にあるとチョムスキーが言うとき、言語の基盤としてたとえば「離散無限」の概念などが脳にあるとみなしている、ということになるのだろうか。

しかしそこまで言われると、反対にこう言ってみたくもなる。離散無限の概念は、脳にあるのではなく(あるいは「脳にあると同時に」でもいいが)、脳の外にあるのだと。脳の外にあるというならどこにあるのか。地球や宇宙の中にあるのか。いやそこにもない。離散無限という概念は宇宙という事実を超えた存在なのだ、と。

・・・というわけでまた横道に入りすぎた。メインストリートに戻り『生成文法の企て』を熟読していこうと思う。