東京永久観光

【2019 輪廻転生】

バケツと世界


目が生まれつき見えない人に話を聞いたことがある。「言われてみればそうですね」という発見の連続だった。声が聞こえてくる位置から相手の背の高さが分かる。猫なら猫という動物がどういうものかは、触ったり持ち上げたりした感じによって作られる。逆に、触れたことがないものは未知の存在であり、どういうものであるかの知識や実感がなかなかもてない。などなど。

とりわけ思いがけない指摘がひとつ。彼らは、点字と同じポツポツの線画を使って様々な形を表わしたり教わったりするという。たとえば日本列島がどんな形なのかなどもそうした描線で学習できる。さてある日、目の見える人がその線画でバケツの絵を描いたそうだ。しかしそれに触って彼らは首をかしげてしまった。「バケツはこんな形をしていませんよ」。



その絵はバケツを斜め上から眺めた形だったのだ。三次元の物体を二次元の絵に落とし込むこのやり方は、ごく当たり前に感じられるが、じつは視覚による体験によって大きく支えられているのだろう。物を見るという体験を持たない人がそうした描き方に慣れるには時間がかかるということなのだ。

身体感覚が異なればこの世界の捉え方は大きく異なる。それを如実に示す例かもしれない。

 *

ここから話は大げさになる。

そもそも人間の思考や言語というもの全体が、人間の身体の特徴と切り離せないのかもしれない。と考えてみたい。

たとえば日本語にも英語にも名詞があり動詞があり形容詞がある。そういうものがないような言語があるとは聞かない(*追記:形容詞がない言語はあるという)。言語がそうなっているからには、私たちの思考そのものがこの世界をそのような形式によって切り分けているのであり、そうした世界の切り分け方がやがて名詞や動詞や形容詞といった言語の構造に反映されてきた、ということは十分ありそうだ。ではその、私たちの世界の切り分け方は、何に由来したのか。身のまわりの平凡な物体の捉え方が視覚の有無によって違ってしまう、そうした事実を踏まえると、人間の身体の特徴こそが人間の思考や言語の特徴を生みだしたのだと想定していっても、さほど無理はないだろう。

しかしそうすると、人間以外の生物が思考のようなことをしたり言語のようなものをもったりしても、人間の思考や言語とは違ったものになってしまうということがありうる。

もう少し具体的にいうと。

たとえば猫やカブトムシも、身体を動かしたり身体で感じたりすることで、自分や周囲が「こんなふうになっている」と受けとめているだろう。ではその「こんなふう」というのは、たとえば名詞や動詞などで構成される人間の言語に翻訳できるようなものなのだろうか。あるいは植物はどうだろう。植物に思考や言語が生じうるのかどうかがそもそも分からないが、それはさておき。植物のありようは人間とも猫ともカブトムシとも大きく違っていて、自分から動くことはないし、たとえば眼という感覚器もない。自分と周囲の区分けもないのではないかと思われる。そんな植物に言語が生じたら、たとえば形容詞だけの言語だったりするのだろうか。太陽が出ていて「アカルイ」とか、気温が低くて「サムイ」とか。いや、形容詞に翻訳できるとしたら、それだけでもう大変な奇跡というべきなのかもしれないが。

いずれにしても、人間と他の生物の認知形式がどういうものかを想像しようという場合、その拠りどころというのは結局それぞれの身体や生態ということになるのだろう。そして忘れてはいけないのは、そうした生物がともに生きているこの地球の環境自体がどういうものであるのかもまた決定的に重要な要因だろうということだ。地球が太陽からとても遠い星であったなら視覚は発達しなかった可能性がある。大気や水があまりないような星であったなら聴覚も発達しなかった可能性がある。そして、人間の言語がこうであるのは(たとえば人間の言語に名詞や動詞や形容詞があるのは)、地球の環境や人間の身体がどうであることに由来したのか、それを考えることはきわめて興味深い。

そしてこの問いはこう進む。宇宙のどこかには途方もない環境の天体や途方もない仕組みの生命体や知性体が存在しているかもしれない。彼らが思考や言語をそなえていた場合、それは人間の言語とは隔絶したものであり翻訳など絶対に不可能と考えるべきなのだろうか?

地球に生まれた人間の身体や思考から最も隔絶した生命体や知性体というと、私たちはどんなものを想定するだろう。たとえば『惑星ソラリス』がある。ではそのソラリスという生命体ないしは知性体が言語をもっていたら、それは人間の言語に翻訳できるのだろうか? とてもできないと考えるべきなのだろうか?

要するに、私たちのこの言語はどこまで普遍的なのか。

 *

考えがここで大きくカーブするが、こうも思う。そもそも私たちは自らの言語に翻訳できる範囲のものしか「言語」であるとの判定や認識ができない、ということはないだろうか?

では、猫やカブトムシや植物やソラリスが、私たちの言語と同じ機能をもった言語をもっているにもかかわらず、その言語が私たちの言語とは仕組みがまったく異なっているために翻訳ができない、という場合、その言語とはいったいどんな言語なのだろう。だいたい、そんなことが(言語であるとは分かるのに、翻訳が原理的にできないというようなことが)ありうるのだろうか? 

 *

言語の普遍性、すなわち私たちの言語と彼らの言語との翻訳可能性と同じく、私たちの数学と彼らの数学との翻訳可能性もまた、私はとても気になる。

そして、私たちの言語に比べ私たちの数学のほうはより普遍的であるような気がしている。さらに、私たちの論理のほうはどうなんだろう。

論理と書いたが、具体的には、思考や言語に現れるたとえば「否定」というような働きのことを考えている。

たとえば「うまい」という語がある。そして、地球上の言語においては、「うまい」があれば「うまくない」もきっとあるだろう。では、猫やソラリスが「うまい」に相当する語をもったとしよう。そのときは彼らも「うまくない」に相当する語を必然的にもつことになるのだろうか?

 *

毎度同じことばかり書いている。でも、何度も書くことで自分の茫漠とした疑問が少しずつでも明らかにそして少しでも具体的になってくれればよいと思う。今回は、目の見えない人の生活を想像することがこうした考えを進める入り口の一つになると確信したのだ。(さて玉子丼でも食べに行こう)

 *

(追記)この話には続きがあります。
 → http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20080518/p1(サケの気持ち、ヒトの気持ち、ブログの気持ち)


 ***


◎関連:十七年寝太郎(素数ゼミ)http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20070607#p1

惑星ソラリス(映画)ASIN:B00006RTTR  ソラリスの陽のもとに(小説)ASIN:4150102376