東京永久観光

【2019 輪廻転生】

近頃の島国では


ドイツやチェコオーストリアなどの中央ヨーロッパは、地続きなのであり、第二次大戦、東西冷戦、壁崩壊といったいずれも異様な出来事を反映するかたちで、人々の移動と融合は大いに進み、現在に至っているようだ。

浦沢直樹の一大傑作『MONSTER』全18巻をやっと読み、感想は多々あるが、そんなこともふと思った。asin:4091836518

戦争においてドイツがヨーロッパで果たしたのと同じ役割をアジアでは日本が果たしたはず。だがそれにしては、今の日本は均質性があまりにも高く感じられる。20世紀アジア史の影なんてものがすっかり消えて見えない。『MONSTER』の主人公天馬の前に次から次へと現れる登場人物の越境性にワクワクさせられつつ、それに比べ日本ってのはやっぱり島国なんだと気づいた次第。

さてその一方、映画『ラスト・エンペラー』を久しぶりにDVDで見た(ASIN:B0001CSB80) ベルトリッチ監督のいささかオリエンタリズム的な悪意もふくめて堪能し、「数奇な」という形容詞はこの人溥儀のためにあるのだと言いたくなった。そして同じく満州というにわか国家そのものがなにしろ「数奇」であったことを思い知る。そこからいつも想像するのは、そのころ大志なり野望なりを抱いた日本人であれば、中国大陸や朝鮮半島さらには東南アジアを視野に入れた世界観と日常をふつうに生きていたのかもしれないということだ。侵略戦争の是非はさておくとして、そもそも敗戦前の地図では大日本帝国はずっと大きかった。成瀬巳喜男浮雲』でも仏印ベトナムでの勤務を回想するシーンがあって、今の私にはまるでSFみたいだが、べつにあれも幻ではなかったのだ。ASIN:B0009OATTY

こうしたことを踏まえて考えるに、天馬の母国での生い立ちはほとんど語られない。ドイツやチェコで出会う人物たちがもたざるを得なかった多彩なバックグラウンドは、1958年日本生まれの天馬にはおそらく皆無なのだろう。それは天馬の顔が類型的なハンサム顔に描かれることにも通じてしまうように感じる。そこは漫画というものの限界かもしれないが。それでも、たとえばチェコからドイツに亡命しフランクフルトのトルコ人街に住み、ネオナチによる焼き討ちも目の当たりしてしまう、ミラン・コラージュという歯科医のおっさんの顔などは、そのバックグラウンドとあいまって非常に愛着がわく。天馬にはそのような背景はないわけだ。彼の生涯も人格もまさにヨハンと出会って激変してしまうというストーリーではあるけれど。

 *

・・・とはいうものの、話をひっくり返すようなことになるが、それでも戦後日本にはたとえば在日がずっと存在しているのであるし、加えて中国や韓国あるいは東南アジアからのニューカマー、南米からはるばるやって来る日系人などもけっして少なくはないだろう。先日の夜は赤坂のちょっと外れを歩いていたら、ロシア系言語でおしゃべりする長身の若い女性数人が闊歩している光景にも出くわして、なかなか壮観だった。それに、人ではなく物のほうは中国製を中心に過激に入り乱れ寄り集まっているのが我々の生活だ。経済や投資といった金のほうもまた国境などは当然超えまくっているのだろうし。

なお、『MONSTER』は家には途中までしか本がなく、終盤が気になってとうとう漫画喫茶=ネットカフェに入ってしまった。年に1回も行かないのだが、あの空間のみごとな狭さと、それと裏腹のみごとな快適さには、感動してしまう。漫画がやめられなかったりネットがやめられなかったりするのとまったく同じ中毒性を味わうことになる。そんなこともあって、ネットカフェは現代日本の貧民窟といった具合なのだろう。おまけに結核の蔓延まで心配されているらしい。

要するに、日本という国では国民はべたっと均質になり歴史もべたっと平板になってしまったように感じてきたのだが、今となっては無自覚というべきで、新たな多民族や新たな歴史というものが明白に立ち現れているのが本当なのだろう。

世界の激動とは、ベルリン壁崩壊後のドイツや、満州があったりなくなったりした時代の日本だけではない。