東京永久観光

【2019 輪廻転生】

血眼(ちまなこ)は春の季語


またもや律儀に桜が咲いている。そこでことしも律儀に桜を思う。人が春を迎え桜を眺める回数は、生涯にせいぜい数十回。私はまだぜんぜん飽きない。これがもし数百回も繰り返す宿命なら、さすがに飽きてしまうだろうか。・・・と、これまた律儀に同じような感想をつづるのだった。

数十回の桜体験しかありえない私たちが、数百回の桜体験がどういう感じなのかを想像するのは難しい。それは、桜体験がまだ数回の時点では、桜体験を数十回も重ねることがどういう感じかなんて、想像もしなかったことに似ている。

しかし、ともあれひとつはっきりしていることもある。春を数十回迎えたらもう寿命だなんて、「短すぎる」ということだ。私はしだいに強くそう思うようになった。

物心がつき人生がこれから始まろうという人は、桜体験がまだ数少ないだろう。そのころ眺めた桜はたしかに格別の思い出を刻む。春をいくども使い古しなお飽きもせず眺めているこの桜とはやはり違う。ただし、その人生の春がどれほど貴重なものであったか、それを本当に思い知るのは桜体験を数十回繰り返してから後のことなのだ。そしてもちろん、桜体験の少ない時にはそんな訳知りの予測などもしない。


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さて桜とちがい、花粉の春のほうは私にはまだ数回しか巡ってきていない。でもこっちはすっかり飽きた。

眼も大変だが、嗅覚もやられるせいか、花粉症の出始めの時期には食べ物の味が分からず残念な思いをした。うっかり寿司屋に入ったところ、トロもハマチも残念な味。でもそれとなく違っているのが面白い。醤油なしでも一緒ではないかと試してみたが、やはりうっすら残念さが増すのだった。いったい脳はトロとハマチの味や匂いをいかにして記憶しいかにして区別しているのやら。そういえば、「嗅覚から味覚は思い出せますが、味覚から嗅覚は思い出せないです」とさる専門家がちょっと驚きの話をしていた。・・・そんなことを考えていたら、いっそう残念な味になった。