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【2019 輪廻転生】

体験と記憶の繋ぎ換え


我々は、夢をみることで、自分が新たに体験した行動や思考を、すでに自分が構築していた、世界や自己をめぐる認知形式の中に、どう収まるかを探り、そして収めている。というふうに考えられる。それがじつはニューロンを繋ぎ換える作業なのだとも考えられる。

夢のなかで鮮烈な体験をすることが稀にある。ひどく驚いたり苦しんだり。ときには出会った人と恋におち肉体を結んだりすることもあろう。それは実際の驚きや苦しみそして出会いや恋に似たものとして記憶されると思われる。

現実に起こったことと夢に起こったことを、我々はそれぞれ「現実である」「夢である」と間違えずに位置づける。しかし、記憶として起こる脳内の変動や痕跡はじつは区別がつかない、ということがありえるのではないか。

テレビのドッキリカメラ。あるいは昔やっていたブラックメール。これらはかぎりなく本当に近い虚構であり、夢と現実の中間領域といってもいい。ハメられた当人は、夢として捨て去るには強烈すぎる甘美すぎる体験や記憶を抱えてしまうことだろう。今ここでオレに巻き起こったこの恐怖や恋はいったい何だったのだ!

マルホランド・ドライブ』(デイビッド・リンチ監督)。asin:B000063UPM

前半は夢あるいは幻想あるいは空想の話だとされる。しかしもちろん、映画をみる私たちにとっては、視覚や聴覚の体験として他のリアルな映画とまったく同じリアルさだ。

この映画は、ストーリーを通して、現実と夢の関わりの深さ、そして、現実と夢の入れ替わりの可能性といったことを思い起こさせる。しかしそもそもこの映画は、映像や音声を通しては、その可能性を可能性どころか否応のない実体験として目や耳に焼きつける。登場人物がその出来事を現実と位置づけるか幻想と位置づけるかではなく、他でもない我々観客のほうが、映画内で進行するあの特異な出来事をそのまま体験してしまい、そのまま記憶してしまうということだ。

マルホランド・ドライブ』だけではないのかもしれない。我々は体験した現実に加え、体験した映画のすべてによって、この世界や自己の像をいくらかずつ繋ぎ変え、それを組み込んだ新しいニューロンネットワークを作っていく。

小説の創作も、書き手は自分が体験した行動や思考の繋ぎ換えをしていると言えるかもしれない。そこに書きとめる言葉という次元でも繋ぎ変えは起こっているし、それを書くために総動員される過去の行動や思考の記憶という次元でも繋ぎ換えは起こっている。読者は読者で、新しい言葉を読むことで、新しい行動や思考の体験を読むことで、自らがすでに蓄積していた言葉たちを繋ぎ換え、自らがすでに蓄積していた行動や思考の記憶たちを繋ぎ換える。

忙しい日常において、我々は夢をみる以外、体験や記憶を人工的に繋ぎ換えるチャンスはあまりない。おそらく小説はそうした貴重な時間を与えてくれる。視覚や聴覚をフルに使わせる映画はなおさらだろう。

もちろん日常の雑事のなかでも我々はあれこれ考えている。しかも考えはけっこう飛躍もする。しかしその繋ぎ換え作業はいささか厳密さに欠ける。一方、仕事や勉強における繋ぎ換え作業はなかなか厳密ではあるものの、いささか飛躍に欠けている。

というわけで、やはり夢そして映画や小説だ。

小説の出現、映画の出現。それは、行動や思考の体験を現実に負けないほど激しく巻き起こすチャンスを、そして、行動や思考の記憶を夢に負けないほど激しく繋ぎ換えるチャンスを、人間が無謀にも手に入れてしまったということなのかもしれない。