東京永久観光

【2019 輪廻転生】

口論すら旅に似ているらしい


きょうは京浜東北線に乗った。品川から大井町、大森、蒲田、多摩川の鉄橋を渡って川崎、さらにもう一本淀んだ川があって鶴見。駅と駅の間はしだいに遠くなり、車窓の風景も山の手沿線とはやはり異なる。それだけでもう小旅行気分だ。

このあいだの曳舟http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20071206)とちがい、このあたりは何度か降りているが、記憶は漠然。大昔の青年期、バイト先のコンビニ店長に連れられて競艇場かなにかに行ったのを思い出した。私の仕事もいいかげんだったが、あの店長も輪をかけていいかげんだった。蒲田は友人の家が近かったり映画館があったりするが、どうもずっと雑多なイメージで、当時のかすかな記憶も、狭くるしいビルの安い飯屋に入ったとかそんなふうなものだ。絲山秋子の短編「イッツ・オンリー・トーク」の舞台が蒲田で、妙にしっくりきた。大井町は意外にも東急線が通じている(大井町線)。かつてはこっちが田園都市線と呼ばれていたことを知る人はもう少ないだろう。その大井町線に乗って行くと、東横線の自由が丘につながる直前に緑が丘という小さな駅がある。そこの下宿に2年あまり住んだ。狭い部屋、さらに狭い窓。そのころの大井町のことはもう分からなくなっているが、今はまた りんかい線などという新路線が出来たりして、またしても分からなくなっている。ただ大井町は先月たまたま訪ねた。駅前に巨大なヤマダ電気が建つなど再開発が進んでいたが、一歩中に入ればうらぶれて味のある路地に迷い込む。

そういえば、東京に出てきたたばかりのころ、有楽町や浜松町あたりから山手線に乗ろうとして、緑の電車と水色の電車がホームの両脇に並んでいたのを、まあどっちでもいいのかなと水色に乗ったら、いつまでたっても渋谷に着かず、それこそ本当に景色が変わってしまい、やっと間違えたと気づいた。ありがちな(?)初心者体験。今思い出した。(自虐ではなく自慢でもなく、ただただ懐かしくて書いている)

京浜東北線ではリディア・デイヴィスほとんど記憶のない女』(岸本佐知子訳) という小説を読んだ。夜中にルーティンのブログやブックマークを辿り終えてもまだ眠れないときなど、自分のブログにアクセスログを残したアンテナ(a.hatena)をダイアリー(d.hatena)に置き換えて逆アクセスしてみることがある。こっちにアクセスしてくださる方というのはこっちからもアクセスしがいのあることが多いのだ。『ほとんど記憶のない女』はそんなふうにして見つけた本のひとつ。

ごく短いテキストの集積で、物語というより、個人のささいな行動や思考の特定の断片を丁寧に説明しているような話ばかりだ。しかしこれがいきなりツボにハマる。


二度めのチャンス

《失敗から学べるものならそうしたいが、世の中には二度めがないことが多すぎる。》(冒頭)

《もし母親を亡くすチャンスが二度あれば、相部屋の誰かがテレビを観ている横で母親が死んでいくようなことがないよう、次は喧嘩してでも個室を確保するべきだと学習する。だが、たとえ喧嘩してでも個室を確保するべきだと学習し、その通りにしたとしても、母親と最後のお別れをしようと病室に入っていったら母親が妙なニタニタ笑いを浮かべていたなどということのないよう、部屋へ入る前に入れ歯を正しい向きに入れ直してくれるよう看護婦に頼むことを学習するためにはもう一度母親を失わなければならず、母親の遺骨が、北の墓地に空輸されたときに入っていた素っ気ない段ボールごと埋葬されることのないよう念を押すためには、さらにもう一度母親を失わなければならない。》(末尾)


フーコーとエンピツ

フーコーの本を読みながらノートにメモをとり読んで分かったところにエンピツで印をつける、という自分の行為を淡々と描写している。フーコーを読んでいる場所は、最初カウンセリングの待ち合い室、次にその帰りの地下鉄の車内。

《座席に腰をおろし、フーコーとエンピツを出すが読まずに、緊迫した関係や、警鐘や、ついさいきん旅行をめぐってした口論について考える。口論はそれ自体が一つの旅に似てくる。口論をする人々は、センテンスから次のセンテンス、さらに次のセンテンスへと運ばれていき、しまいには最初の場所から遠く離れたところにいて、移動と、相手と過ごした長い時間のために疲れはてる。口論について考えているあいだに何駅か過ぎる。考えるのをやめてフーコーを開く。フランス語で読むフーコーはわかりにくい。短いセンテンスより長いセンテンスのほうがわかりにくい。長いセンテンスのいくつかは、部分部分はわかっても、あまりに長いために、最後にたどり着く前に最初のほうを忘れてしまう。最初に戻り、最初を理解して読み進み、最後まで来るとまた最初のほうを忘れている。最初に戻らず、理解もせず、思いださず、何も学ばないままエンピツを宙に浮かせて読み進む。わかる部分になり、余白にエンピツで印をつける。印は理解したことを示し、前に進んだことを示す。フーコーから目を上げ、他の乗客を見る。メモ帳とペンを出して乗客たちについて書きとめ、誤ってフーコーの余白にエンピツで印をつけてしまい、メモ帳を置いて印を消す。ふたたび口論について考えはじめる。口論は、それをする人々を前に運ぶ乗り物に似ているだけでなく、植物にも似ている。口論する人々のまわりに垣根のように生い茂り、まばらなうちは少しは光も入ってくるが、しだいに繁茂して光をさえぎる、光を暗くする。口論が終わっても、口論をしていた人々は垣根から抜けだせず、お互いからも逃げだせず、光も見えない。口論について質問すべきことを思いつき、メモ帳とペンを出して書きとめる。メモ帳をしまい、フーコーに戻る。》


大学教師

《何年か前、私はカウボーイと結婚したいのだと自分で自分に言い聞かせていた。何がいけないというんだろう――独り身の女性で、茶色の風景に心踊らせ、ときおり西海岸の道幅の広いハイウェイを車で走っていると、バックミラーの中にカウボーイの運転するピックアップ・トラックを見かけることだってあるというのに? じっさい、東海岸に住んでいてカウボーイではない男と結婚している今も、まだ心のどこかでカウボーイと結婚したい気持ちを捨てきれずにいる。
 だが、カウボーイが私みたいな女に何の用があるだろう――大学の英文科の教師で、父親もやはり大学の英文科の教師で、くだけたところのあまりない、私のような女に? 一、二杯酒が入ればすこしはくだけるが、それでも話す英語は文法的に正しいし、親しくない人が相手だと軽口もうまくたたけない。》(冒頭)

 ……そうして自分がカウボーイと結婚した夢想を気の向くまま綴っていく。


カウボーイとの結婚ほどではないかもしれないが、私がもしも、この大井町、大森、蒲田あたりの線路沿いに裏壁をさらしているようなアパートの、どれかの一室で青年期を暮らしてきたとしたら、今とはぜんぜん違う人生もあったのだろうか。などと考える。


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リディア・デイヴィス『ほとんど記憶のない女』(訳 岸本佐和子) asin:4560027358 ちなみに表紙の絵はマグリット

絲山秋子『イッツ・オンリー・トークasin:4167714019