東京永久観光

【2019 輪廻転生】

劇と旅


先日 郷里福井へ帰り芝居をひとつ見てきた。「百年イラチカ」という劇団(かつての名は「シベリア寒気団」)。自らの小屋をもちオリジナル作品中心の公演を長年続け、大阪や東京にも遠征している。今回は、この劇団が、鈴江俊郎という岸田賞作家と積極的に交流を進めるなかで、なんと同劇団の役者を想定した書き下ろし脚本を提供してもらったというのだ!

さて、近ごろ芝居をほとんど見ていないこともあり、とにかく目の前で進んでいく生の舞台そのものの力に、まずは圧倒された。だいたい、芝居とはおしなべてややこしく、そもそもよくわからないものだ。いつも思う。いったい何の話なんだろう、この人物はどういう意味でこんなことを言うのだろう、さらには、その役者をやっているこの人は、いつもどういうつもりで人前でこんなことばかりやっているのだろう、などなど。劇が進行するにつれ、見ている自分の考えや気持ちもまた時々刻々けっこう揺れ動く。

しかもこの劇団には古くから関わりの深い人が多い。そのため、脚本上の役柄や物語に 演じている当人の性格や背景がふと重なって見える。そうなると、台詞や動きのひとつひとつに、こちらの私的なもろもろの思いが勝手に引き出されてしまう気がするのだ。しかも私としては久々に帰ってきた郷里であり懐かしい人と再会したりもしている。そんなわけで、いろんなものが片付くというより、どんどん散らかっていくような、複雑な時間を過ごすことになった(いつもそうかも)。

客観的にもなかなか奇妙な芝居だった(いつものことか)。タイトルもへんだ。「にちにちのともに にちにちのたよりを」。ちょっと意外なことに、憲法改正に断固反対する市民運動グループの5人が主役。週に2回ほど近所の一室に集まって会合を続けているらしいのだが、効果のあがる活動方法がいっこうに見つからず、運動の目的そのものもなんだか分からなくなってきている。そこへもってきて、メンバー同士は厄介な男女や女女の関係を抱え、それぞれの心中にも、生きること全体に陰を落とすような悩みや拘りが隠れている。そうしたことのすべてが徐々に露わになり崩れていく、そんな話。いやそれは特別な人々の特別な出来事ではぜんぜんないだろう。

ある男は、自分の気持ちは他人には分からないし、正しく生きるなんてことは最初から諦めている、みたいなことを言う。だから人は間違えることしかできないし、孤独に死んでいくしかない、みたいなことを。それに対しある女は、そんなこと分かってるわよと反発する。現実が虚偽でしかなく孤独でしかないからこそ、私たちは理想の歌を歌うのよ、みたいなことを言うのだ。そうこうしているうちに、やがてその理想の歌が、嘘のように、奇跡のように、美しく正しく歌われ響いていくのを、私たち一堂は一瞬ではあるが耳にすることになる。

不倫問題あるいは人生問題とは、そのまま憲法問題に通じ平和問題に重なるのかもしれない。問題解決の決定的な困難さにおいて。結婚したけど別の人が好きになった。どうしたらいいのか。どうしようもない。愛人をとれば夫婦は犠牲になるし、夫婦をとれば愛人は犠牲になる。いやそもそも、一方が犠牲になったからもう一方が幸せになるといった構図でもないように思われる。こういうどうしようもなさは、やっぱり、安保や自衛隊憲法9条とがどうにも折り合いがつかないことと、ちょっと似ていないだろうか。戦争と平和とが理論的には絶対に両立しないことや、ところがむしろ実際はしばしば共存してしまうことを、なんとなく思い浮かべないだろうか。深読みかもしれない。でも深読みだとしたら、それは、私たちの多くが不倫問題は深刻でも憲法問題は軽薄に扱うからではないのか。あるいは人によっては逆に、平和問題のみ優遇し人生問題には冷淡だからではないのか。

人生問題も平和問題も、それを本気で見つめたことがある人にはどちらも本当に深刻であるにちがいない。どちらの問題においても、男が言うように人は分かり合えず正しくも生きられず孤独に死ぬしかないだろう。では私たちは、その2つの問題のうちどちらか1つでいいから、その絶望や孤独を本気で見つめたことがあるだろうか。あるいは、現実が絶望でしかないのを知っているとして、それなら女が言うように、嘘でもいいから限りなく美しい希望を、私たちは本気で求めたことがあるだろうか。不倫の問題であれ、憲法の問題であれ、何であれだ。芝居を見ながらそんなことを思った。そしてさらに思った。私は、あらゆる問題において、その絶望をあの男のように本気で見つめようとはせず、裏腹の希望すらもあの女のように本気で求めようともせず、いつもいつも先送りばかりしてきたのではないか、と。

まあいろいろ書きすぎた。だいたい物語や台詞に、なにか上に書いたような意味があるのかというと、やっぱり無いのかもしれない。

ところがその一方で(ここまでとはまったく話は変わるのだが)、どうやら演じるという次元には、正解というものがあるのではないか、なんてことを今回は感じた。言い換えれば、それくらい喋りや動きがピタっと決まるのが難しい芝居のように見えたのだ。

芝居をどのように正解に達せられるのか。その苦心を観客は知らない。どうやったらうまく演じられるかは、役者や演出者が悶々と悩んで見いだすのだろう。それは見ている方には分からないし、もちろん代わりにできたりするわけはない。それでも、役者がうまく正しく演じられた時の気持ちよさは、おそらく観客も共有できるように思う。イチローが特別な才能と訓練によってあのようなヒットを生み出すのを、ファンは真似できるはずがないが、イチローがヒットを打ったときの気持ちよさなら、イチローとファンとでけっこう共有できるのではないか、というようなことだ。

それと、物がやっぱり物を言うのだなあという印象。身体とか物というのは、その意味が明確であろうがなかろうが、それが動くことによるインパクトはとにかく強い。服とか紙とか。

やっぱりいろいろ書きすぎた。でも芝居って何だろう。そしてこの芝居は何だったのだろう。みんな何を分かろうとしたのか、何を分かってもらおうとしたのか。そういうことは、結局いつもよく分からないのだ。芝居ってよく分からない。

しかしながら、芝居によってたしかにこれといった解決はしないのだとしても、いわば解消はしているのだと思う、なにかが大きく。そういう点で、こうした芝居のような創造や表現をすることは、つくづく面白いことなのだろうと思う。そして、そういうことを長く続けている人たちの群れと場がこうしてあることが、なにしろ素晴らしく、羨ましい。それだけは間違いない。

芝居の前後に少しいろいろ話もできた。やっぱり何も分からないし、分からないことや聞きたいことは増える一方なのだが、それでも、ほんの1日2日の間に、ふだん会えない人に会い、そこに芝居の印象が加わって、精神は非常にめまぐるしく動いた。というか、郷里とは、東京に住む自分にとって、まあ冥土のような位置にある。実際に触れてはいないのだが、心の軸を形成していることは間違いない。だからこうして行き来するのは、まあお盆に死者が帰っていくみたいなものか。そんなわけで、この世とあの世をこうして往復し(新幹線など列車は快調で、あっと言うまに着いてしまうのだが)、まあ私なりに何かが解消はしたのだった。

●劇団 百年イラチカ http://100chica.jugem.cc/?eid=371