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【2019 輪廻転生】

誰も私にギャフンとは言わせない、知的にも、恋的にも


金井美恵子文章教室』(asin:4309405754 asin:4828821406

じつにまあ意地の悪い小説だ(高橋源一郎でなくてもまず出てくる感想はそれだろう)。ただ、読んでいる一般の立場としては、登場人物にされて揶揄されることも、あるいは自分の書いた文章に矛先が向けられることもなく、高見の見物ができるわけで、ただただ面白かった。最後は筒井康隆かと思うほどエスカレートするので、可笑しくて仕方なかった。

この書物のはじめから終りまで、ぼく自身がつくりあげた言葉は一つとして挿入されることなく、ひとたびこれを読んでしまうや、ここにある文句をうっかり洩らしてしまいはせぬかと恐しくなり、誰ももう口がきけなくなるようにしなければなりません

これはフローベールが『紋切型辞典』について述べたとされる文言。この小説こそそれをみごとに果している。ちなみにこの文言は蓮實重彦『物語批判序説』(asin:4120013693) に記されている。その『物語批判序説』と『文章教室』はどちらも1985年の刊行。そういう時代だったとも言えるか。ピンクハウスとかも。

そこで口を開くとき、人は、語るのではなく、語らされてしまう。語りつつある物語を分節化する主体としてではなく、物語の分節機能に従って説話論的な機能を演じる作中人物の一人となるほかはないのである。にもかかわらず、人は、あたかも記号流通の階層的秩序が存在し、自分がその中心に、上層部に、もっとも意味の濃密な地帯に位置しているかのごとく錯覚しつづけている》(物語批判序説)

しかし…。金井さんは本当にロマンなしに生きているのだろうか。生きていけるのだろうか。本当にそうなのだろうか。じつはロマンはあるんだけど、それはひたすら隠し通すべきで見せつけたり語ったりするものじゃないと考えているだけなのだろうか。あるいは、この小説を書くことで自身もふくめて嗤っているつもりなのだろうか。どうなんだろう。

ともあれ、金井さんにとって「競争相手は馬鹿ばかり」という述懐はたぶん本心だろう(asin:4062120771)。だから、巷にあふれる小説然とした批評然とした文章など、ことごとく愚かしさが透けて見えるばかりで、まさか憧れたり焦がれたり信じたりの対象になどなるわけがないのだ。少なくとも同国の同時代においては。

最も賢い人は、自分が分からない答は他の誰にも期待できない。どんな分野でも誰か1人は必ずそうした不幸な位置にいるはず。野村監督などは勝てないとき誰に相談するのだろう。小説という世界では金井さんがそう感じているのかもしれない。他人を頼っても愚かさ以上の回答は出てこないと。

じゃあ金井さんにとって、そうした自分未満のバカ問題はさておき、自分以上の正当な文学問題や恋愛問題もまた存在しないというのだろうか。そこは気になるところ。もしも、金井さんにも金井さんレベルでの非常に賢明な文学問題や恋愛問題が存在するのなら、どうしてそれをマジに問いかけないのかという疑問が残るのだ。あるいは、やはり自分以下も以上もなく、真面目な顔で取り組むべき文学のロマンとか恋愛のロマンとかいうものがそもそも存在しないのだと、確信しているのだろうか。

私はそこまでは思わない。分からなくて、知りたくて、もう死んでしまいそうな問いは、間違いなくある。だから最後は叫ぶだろう。それこそ世界の中心でそれを叫んだっていいじゃないか! 恥ずかしいけど。恥ずかしいけど、叫ばずにはいられない。ロマンチスト。