東京永久観光

【2019 輪廻転生】

弱気な尻尾


我々がこのように書いたり話したりする「文」には、ふつう「内容」とか「中身」とかいうものが含まれている。それは当たり前か。ところが実は、「文」は「内容」のみで成り立つのではない。もう1つ別の要素が必ず見いだされるという。すなわち、その「内容」を書いたり話したりしている当人の、その「内容」に対する「スタンス」とでも言うべき要素だ。

この「スタンス」のことを、専門用語で「モダリティ」と呼ぶ。

具体的に言うと、「〜してくれ」「〜しようよ」「〜だろう」とか、「〜かもしれない」とか「〜せねばならない」とか、「〜ようだ」「〜らしい」とか、そうした種々の文末に代表される働きがモダリティということになる。

なぜそんな所に私が注目するのかというと、実際こうしたブログなどを書いていて、中身よりもむしろそうしたスタンスの吟味に時間を取られている気がするからだ。しかも、特に「〜かもしれない」「〜ではないか」「〜だろう」といった類いの表現は、うっかりすると何度でも出てきてしまう。1日1回ずつでおさめようと調整することもある。自分の話し方というのはモニターしにくいものだが、書く方のクセはこうしてはっきり見えるので、いやでも気になるのだ。

まったく、どうしてこう同じ文末ばかり好むのか。控えの選手はいないのか。

たぶん私は他人と揉めるのが苦手で、書き物においても断定口調を避ける傾向があるのだ。特に世論を二分するようなテーマで「〜だ」はまずい。そこで大活躍するのが「〜かもしれない」「〜ではないか」「〜だろう」。もう我がチームの3バックだ。

この件 以前もちょっと考えたが、今回は『日本語の文法3 モダリティ』(岩波書店) という教科書をひもといてみた。このシリーズは全4巻で、そのうちの1巻がまるまるモダリティの説明に費やされている。なかなかスゴい。「近年研究の進展のめざましいモダリティ」とも書いてある。

そして同書は、モダリティを担う様々な表現について意味を明白にしながら体系をつけていく。たとえば私の好きな「〜かもしれない」「〜ではないか」「〜だろう」はどう説明されているのか。以下は、関係する部分を適当に拾ったもの。


〜かもしれない、〜にちがいない 等】 いずれも、基本的に、「そうでない可能性」の保存としてまとめることができる。(略)そこで主張される事態に対して、そうでない事態、すなわち矛盾する否定事態の成立も保存するという意味である。/事態の真偽性に関わる広義の選択関係をベースにし、その真偽の唯一性をいわば放棄する(決めてしまわない)関係として把握できる。

疑問文じつは、疑問文は肯定と否定が論理的な意味として中和するという非常に興味深い性質を持っている。すなわち、通常の平叙文であれば「彼は来る/彼は来ない」は、まったく矛盾する関係であって、どちらもが同じ意味を表すということはない。しかし、疑問文においては、「彼は来るか/彼は来ないか」という2つの文は、論理的には同じ意味として使える。(略)このことは、疑問文において、1つの内容だけが唯一的に主張されているわけではないということを表わす。

〜ではないか(否定疑問文による考え方の提案)】 その内容がまだ明らかなものとして共有されていないということを前提として、話し手の考え方を提案する場合に、その考え方が当該文脈でまだあらわなものとなっていないということを否定を含んで表わし、それが成立するかどうかを疑問文として提示することになっているわけである。

【推量(〜だろう 等)】 命題内容である事態の成立・存在を不確かさを有するものとして、自らの想像・思考や推論の中に捉えるものである。


ざっと読んでどうだろう。まさに、「どっちつかず」な私の態度を表わすのに持ってこいの言い回しだったのだと感じられる。

ところで、ここで疑問。

日本語に、そうした どっちつかず の絶妙な言い回しがいろいろ整っているがゆえに、我々の意見や性格もつい どっちつかず になりがちなのだろうか。それとも、我々の意見や性格がそもそも どっちつかず だったから、こうしたモダリティが成立してきたのだろうか。


*『日本語の文法3 モダリティ』 (仁田義雄、森山卓郎、工藤浩 著)asin:4000067184


*過去の関連エントリー
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20070801#p1
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20030528#p1


なお、モダリティという観点は、言語のコミュニケーション論に少し近いようだ。たぶんそっちのほうがもっと面白い。


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(追記10.29〜下のコメント欄に関連して)

「動詞-目的語」の順になる言語の話者と、「目的語-動詞」の順になる言語の話者とで、結論を先延ばしする傾向に差があるのかどうか。この問いは通俗的かもしれませんが無意味ではないと考えます。「結論を先延ばしすること」をうまくモデル化すれば検証できるようにも思います。

では、そんなことを検証する意義がそもそもあるのかどうか。これは言い換えれば、両者の相関もしくは因果を予見するだけの科学的根拠があるかないかということになりましょうか。

で、少なくとも、「結論を先延ばしにする傾向」が、たとえば「血液型がA型であること」や「肉より魚を多く食べること」と関係しているかどうかを調べるのに比べれば、よほど大きな意義があると私は思います。

さらに今思ったのですが、「結論を先延ばしする」とか「どっちつかず」とかいうものの正体は、じつはけっきょく「言語表現自体の特性それ以外ではありませんよ=まさに言語でした!」、なんていう結論にならないともかぎらないのではないでしょうか。

というわけで、そもそもこうした問いがどのように研究されているのかいないのか、そういうところをまず知りたいと思っています。