東京永久観光

【2019 輪廻転生】

身体のおぼえ


けさ、道の向こうからあまり目立つタイプでもなさそうな小学生の男の子が一人でやってきて、なんだかはにかんだ顔をしつつ、右手のこぶしを遠慮がちにふるってみたり、そうかとおもうと今度は左手をおずおずと上げたりしながら、私とすれ違っていった。「そんなの関係ねえ」と「オパピー」かな、あれは(そういえば、なんとなくうわ言みたいにそう言ってた)。

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秋はぐっすり眠れる季節なのだろうか。

目が覚めると身体の感じなどから何時ごろかだいたい分かリ当たっているものだが、このところそうでもなく、始発帰りで寝て起きたら驚くなかれ昼を大きく回っていたなんてことがよくあった。

そのままシャワーで身体を洗いながら「あれ? 頭はもう洗ったっけ」と、そういう疑問がもちあがること自体はたまにあるのだけれど、今回は本当にどっちだったか分からなくなり、面白かった。手続きの記憶(身体を洗う手順や要領)ってのは、強力かつ無意識的なのだと改めておもう。

「あれ? 昼飯はもう食べたんだっけ」ということは、腹のほうがちゃんと減ってくれるので、いちいち覚えていなくてもいい。

じゃあ、きのうの昼あなたは何を食べましたか? そもそも選択肢が少ない人は思い出しやすい。どうせカレーかラーメン。

ともあれ身体はたくさんのことを記憶しているものだ。駅から自宅までの細かい道順などを他人に言葉で伝えようとしても難しい。自転車の乗り方もべつに暗記したわけではない。その自分の自転車を何十台も並ぶ駐輪場からどうにか見つけ出せるのも、視覚の膨大情報に支えられているのだろう。人の靴を間違って履けば、すぐ気づく。人の傘を間違って持っていくのは、まあ急な雨だったので許される。

しかしまあ、夫と別の男を間違えてしまうとは! http://sankei.jp.msn.com/world/asia/071017/asi0710171113002-n1.htm 川端康成「雪国」でも読んで参考に。

ところが昨今は、地下鉄の改札を出て地上に向かうときなど、東西南北という全体感覚に照らすのではなく、こっちの→に進んでB-3の出口を出て左にまがる、といったマニュアル手順的なやり方のほうがすっかり得意だ。ナビに出ない道路はもはや存在しないことにするとか。そういえば、神戸の人は山方向と海方向で街を把握するらしい。中国大陸も西は山で東は海。

渡り鳥は地球の磁気を感知しているといった話がある。その場合の北と南とはいったいどういう感触(クオリア)なんだろう。甘かったり? くすぐったかったり? 残念ながら人間には分からない。生まれつき目の見えない人に「見える」ということが分からないのと同じだ。

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話の落ちというわけではないのだが。

子供が自分の気持ちを他人に言葉できちんと伝えられるようになるまでには何年かかかる。あるいは、年寄りがパソコンのキーボードで自分の意見や意志を打ち込んでブログに載せるまでの熟練も、けっこう大変かもしれない。

ところがここに「Wii」という装置が登場した。これはもしかして将来、言葉ができない段階の赤ん坊や、あるいはパソコンがぜんぜんダメな世代の人でも、かなり複雑な感情や思考をダイレクトにスムーズに表出できる、そんなツールになりうるのではないか。テルミンを思い浮かべるといいかもしれない。

以下はWiiが出るずっと前の対談だが、非常に参考になる。
http://www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic025/html/021.html 港千尋「キーボードでは,赤ん坊はコンピュータを操作できません.おそらく7−8歳以上でなければならないでしょう.しかし,データ・グローヴだったら3歳でも入力できるわけですよね」