花火の魅力だけは引きこもっていては分からないね!
…かというと、そうでもなくて、ライブカメラとプラネタリウムみたいな装置を組み合わせ、音もヘッドフォンを使えばどうにかなるんじゃないか。携帯にデータを送信してもらい、自宅で浴衣じゃなく寝間着でごろごろしながら眺められたら最高!
…かというと、そうでもなくて、最近気がついた。インターネットのブラウズやメッセージは、なかなかエピソード記憶にならない!
エピソード記憶とは。たとえば、子供のころ遠足であの山に登ったなあとか、リュックからおにぎりを出したら斜面を転がってしまい、見かねた花子先生がバナナをくれて、泣きながら食べたなあとか、「でも先生、バナナはおやつですよね」とか、そんな思い出だけはいつまでも鮮やか、というやつ。
記憶はいくつか分類法がある。体験した一回の出来事をまるごと覚えているエピソード記憶と、たとえば「バナナ」や「遠足」「花火は江戸の粋」といった一般的な意味や知識の記憶とは、脳にしまわれる仕組みが異なるとされている。
先日テレビで流れたアニメ映画『時をかける少女』で、未来から来た少年は、野球を知っていたが野球を体験したことはなかった。青空の広さや人の群れも実際に見たことはなかった。
「美しい国」とかいうのも、いくら耳にタコができようと出来事としての記憶を欠けば数式のようなものになってしまう。「ケンポーカイセー」や「ヘイワケンポー」も。
参照:http://www.yomiuri.co.jp/election/sangiin2007/commitment2/p00001.htm
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「人間は言語の意味を記号として読み、機械は言語の意味を情報として読む」みたいな分け方をこの前した。なんか関係ありそうな気もする。が、あいかわらず漠然としたことしか考えられない。
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20070716#p1
ただともかく、ついこのあいだインターネットで書いたり読んだりしたことをあまりにもきれいに忘れ去ってしまうことに、私は愕然とするのだ。いやインターネットだけではない。近ごろは読んだ本の中身もみごとに忘れる。メモを記しディスクに残してもまたそれを開いて読まないかぎり再生しない。自分のものでないCDをとりあえずiTunesにコピーしてもバンド名からサウンドが浮かんでこないというのもある。しかしまあ、ニュースみて雑誌みてアンテナみてブックマークみてという日々の繰り返しなのだから、明らかに処理しきれない量の情報なのだ。すべて通り過ぎていっても仕方ない。江戸の長屋の連中は、毎日いくつくらい新しい情報にふれたのだろう?
しかしながら。毎日のおかずが何だったかは覚えていられないが、みそ汁をひっくり返したあの日の食卓だけは忘れない、という。ネットの読み書きやつきあいも、なにかそういうヘンな出来事になる仕掛けを組み合わせるといいのだろう。☆100個とか? でもそれもすぐに飽和してしまうのか。
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映画を見るのはいくらか中間的な記憶になるような気がするから、映画はすごい。
ちなみに、記憶とはニューロン回路の発火パターンそのものであると考えると、記憶こそ私のすべてというふうにも思えてくる。