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【2019 輪廻転生】

年金の長いトンネルを抜けると選挙であった


日本語に主語はいらない』という本がある(金谷武洋 2002)。いくらか反感も買っているらしいが、読むとまさに目から鱗が落ちる。我らが言葉の正体もしくは極意を初めて掴んだ感じがする。asin:4062582309

英語の5文型というのはしつこく習ったから知っているだろう。ところが日本語の文型を問われたら「はて」と首をかしげてしまうのではないか。まあ異常と言うべし。でも実は日本語にも「名詞文・形容詞文・動詞文」という3文型がある。外国人の日本語学習では一般的であり、実際みごとに合理的な分類になっている。

その3文型の例として、金谷がまず挙げるのが以下。

「赤ん坊だ」「愛らしい」「泣いた」

そうこれは文である。我々はこのような日本語をよく使う。これで不足はない。そしてたしかにここに主語はない。これぞ日本語の基本というわけだ。もちろん上記は、「ポストに入っていたのは赤ん坊だ」とか「酔った勢いで書くところが愛らしい」とか「あの福沢がまた泣いた」といった文にもなる。そのときは「ポストに入っていたの」とか「酔った勢いで書くところ」とか「福沢」とかが学校文法的には主語とされるだろう。ということはつまり、「日本語に主語はいらない」と主張する場合、「〜が」や「〜は」を文法的に他のいかなる役割として位置づけるかが焦点となる。

そして金谷は、「〜が」や「〜は」が主語を表す印だとは考えない。

「〜が」は、「〜を」「〜で」「〜に」等と並ぶ格助詞の一つにすぎない。たとえば「社保庁が年金でボーナスを職員に支給した」という文なら、「支給した」が文の本体であり、そこに「年金で」「ボーナスを」「職員に」等々がいくらでも勝手にくっつく。「社保庁が」も、それらと同等の身分でくっついているだけとみるのだ。主語という意識から「〜が」だけを特別な役割で見るのは錯覚ということになる。言い換えれば、「社保庁が」は、「年金で」「ボーナスを」「職員に」と同じく補語にすぎないという解釈だ。というわけで、英語なら文に主語は不可欠だが、日本語は「〜が」がなくても成り立つ。そして日本国は社保庁がなくても成り立つ。

では「〜は」はどうか。「〜は」は、英語でいう主語などというものをはるかに超えた活躍をしていることは間違いない。実際に日本語で文を書いてみればいやでも実感する。そんななかで最近、「〜は」=「トピック(主題)を表わす」という説明をよく見かける。「〜は」の簡潔な理解としては最も妥当だろう。そもそも言語は日本語にかぎらず「トピック+コメント」の組み合わせが基本だ、という人もいるようだ。

しかし、金谷は「〜は=主題」と言うだけでは足りないと主張する。そして「〜は」に「スーパー助詞」という称号を与える。

そのスーパーぶりを端的に示す例として挙げるのは、「吾輩は猫である」の冒頭だ。

吾輩は猫である。名前はまだ無い。
 どこで生まれたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いて居た事丈は記憶して居る。

ここで注目すべきこと:
吾輩は → 猫である。
    → 名前はまだ無い。
    → どこで生まれたか頓と見当がつかぬ。
    → 何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いて居た事丈は記憶して居る。

つまり「〜は」の支配力は、ピリオドを超え文を超えてまで働くのだ。凄い!

これは「主語廃止論」の先人として知られる三上章の考察をそのままリスペクトしつつ紹介したものだ。スーパー助詞「〜は」は、文から離れ文の外部にそそり立つ。まるで船団を従えて掲げられた旗艦のフラッグのようだと、金谷は形容している。 学校文法を主流とすれば三上文法は傍流になるようだが、両者を比べれば三上文法の合理性はあまりにも明らかだと、私も思う。

さらに金谷が示す次の分析でも、「〜は」の万能パワーに驚かされる。

この本は、タイトルがいいので、大いに期待した。図書館ですぐ読んだが、得るところはなかった。まったく期待はずれだった。」 (ちなみに何の本でしょうね)

この本は → (この本の)タイトルがいいので、
     → (この本に)大いに期待した。
     → (この本を)図書館ですぐ読んだが、
     → (この本から)得るところはなかった。
     → (この本が)まったく期待はずれだった。

この関わりをみれば、「〜は」の役割が「主語→述語」という文法関係に収まらないことがよく分かる。「〜は」は、「〜の」「〜に」「〜を」「〜が」等々あらゆる格助詞=あらゆる関係に成り代わるスーパー助詞であり、むしろ語用論的機能を八面六臂に果しているとも考えられる。

これに絡んで、昔から議論が続いてきた「象は鼻が長い」「ぼくはうなぎだ」さらには「こんにゃくは太らない」といった文が取り上げられる。これらは英語等に翻訳しにくいことから「日本語として使うな」といった暴論まで出たというが、いずれも文としてまったく不整合はないのだと結論づけている。


 *


さらに自動詞と他動詞が論じられる。英語は目的語が要るかどうかで両者を区分けするが、日本語は自動詞/他動詞でそもそも語彙が異なる。

 例:消えます/消します(台帳)
   縮みます/縮めます(支払期間・命)
   切れます/切ります(堪忍袋の緒)

またこの対比は受身/使役への語尾変化に通じるところがある。

 例:払われます/払わせます(年金)
   笑われます/笑わせます社保庁

この、じつにエレガントな設計を隠し持つ、我らが動詞の変化システムの全貌については、ぜひ同書を参照してほしい。そしてこれはどうやら我々の一環した世界観に支えられている。すなわち、物事を「自然/人為」のグラデーションとして捉える習性だ。究極的には、物事が「ある」とみるか、物事を「する」とみるか、その区分に重なっていくという。なおここに挙げた例はもちろん氷山の一角、一事が万事である。社保庁は腹が黒い。


 *


金谷武洋はカナダの日本語教師としても活躍してきた人という。だいぶ前に別の著書『日本語文法の謎を解く』を読んだ(ちくま新書 asin:4480059830)。主語不要論はそこでも鮮明だった。今回はその原点といえる『日本語に主語はいらない』を読んだしだい。

日本語文法の謎を解く』のメモが残っていた。それを見直すと、日本語と英語ではそもそも表現システムに根幹的な差が横たわっていると感じられてくる。以下そのメモから――

I              が
I have time.        時間がある。
I have sun.        息子がいる。      
I want this house.    この家がほしい。
I want to see this.    これがみたい。
I understand Chainese.  中国語がわかる。
I need time.        時間が必要だ。
I see Mt Fuji.       富士山が見える。
I hear a voice.      声が聞こえる。
I like this city.      この町が好き。
I hate cigarettes.     たばこが嫌い。
I have seen it.      見たことがある。

なんと美しい対比か。日本語では「I=私」がみごとに消え去ってしまう。というか、英語のほうが「主語=私」にあまりにも拘りすぎなのだろう。

I want it. I understand it. I need it. I see it.  I hear it. I like it. 英語ではかように主語(I)と目的語(it)が不可欠。ところが日本語ならいずれも一語で言えるのだ。すなわち、「ほしい」「わかる」「要る」「見える」「聞こえる」「好きだ」

自分の意識ですら、英語はわざわざ主語(I)と目的語(myself)に分離して描写する――

気がつくと部屋に寝ていた。 → I found myself sleeping in the room.


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いろいろ挙げてきた日本語の諸々の傾向を、いわば全身として全景として窺い知れるのは、やはりあの一節だろうか。英訳は金谷。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
The train came out of the long tunnel into the snow country. 


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■追記6.24

ichinicsさんのトラックバックで、池上嘉彦が日本語とその英訳を「主観的把握/客観的把握」と区分していることを知った。なるほど核心をついている感じがする。http://d.hatena.ne.jp/ichinics/20070623/p1

それとは別だが、池上は『するとなるの言語学』という本も著している。読んでみたい。というのも、私に代表される日本語ネイティブはたしかに「なんとかなる」とよく言うし、かつ「なんとかなる」と信じがちにみえるからだ。一方英語ネイティブなどはむしろ「なんとかする」という態度で世界に向き合っているのかもしれない。旅先のトラブルなどに際してもそんな風に感じないでもない。asin:4469220329

なお以前、『認知意味論』(レイコフ著)に池上氏が書いていた解説を読んだときも、認知言語学という学問および池上氏自身の考察に非常にひかれるものを感じた。http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20070123#p1

東京言語研究所というところで夏に集中講座をするようだが、がぜん興味がわく。http://www.tokyo-gengo.gr.jp/natu.html

それとichinicsさんは、《言葉を通して「自己投入」することができる》ということについて考えている。私が思うに、あらゆる言葉は個人が経験するいずれの感覚や運動とも(言い換えればいずれの脳神経活動とも)厳密には同一でありえない。ただし、同一でないからこそ、類似した感覚や運動を同一の言葉として括ることができる。他人の言葉に自己が投入できるのはそのおかげなのだろう。

しかしながら、世界のあれこれは、言葉によって同一のものとして一応括られるけれども、厳密に同一ではないがゆえに、括られずに漏れたものが認識に伴うノイズとして必ず残る。そして、そのノイズを疎んずるか慈しむかで、自然や脳や映画やアニメに対する面白がり方は変わってくるに違いない。言葉で記述される思想というものに対する面白がり方や信頼もまた。

以前、《人間は、自然現象を、自らの脳の認知形式に従って受けとめる。しかし「自然そのもの」には、脳の形式に収まらない途方もない複雑さがあるかもしれない。》《芸術は、脳内現象を、自らの表現の形式に従って受けとめる。しかし「脳そのもの」にも、表現の形式に収まらない途方もない複雑さがあるかもしれない》と書いたのも、そういうことだった気がする。http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20070421#p1


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■追記6.25(コメント欄を受けて)

fofoさんへ。趣向だったわけですね(失礼失礼)。フランスでは母語への愛着というか執着(?)が非常に強いとききますが、それだけ理解も深まったということなんでしょうかね。日本でも内心はそうだとしても、実質的には江戸までの日本語の使用と研究の伝統は明治の西洋化で途切れまあ歪んでしまったのでしょう(それで金谷本の副題が「百年の誤謬を正す」になっている)。それでも、関係代名詞などは今や平気で使われるようになり、だから日本語は英語等のおかげで語彙だけでなく表現の幅さらには使い手のものの見方の幅もがぐんと広がったと言えるのかもしれません。最近でもたとえばカート・ヴォネガットの小説などはじつにうまく日本語化されたなあと感じます(いやもともと日本語として結構しっくりくる文体だったのかな)。そういうなかで、今、「たけくらべ」などかつての伝統を残した日本語を読んでみると、こんなの他の言語には(現代日本語にも)訳せない、このまままるごと味わうしかないよ、と言いたくなります(http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/nichigen/hikaku/takekurabe.html)。「古池や蛙とびこむ水の音」もそうですね。「たけくらべ」や俳句を西欧語でどうやって理解できるんだと思ってしまいます。逆に、フランスの現代思想の難解さとかゴダールの映画の饒舌さとか、それらはやっぱりフランス語でしか本当には味わえないものなんでしょうかね。あと「I love you」ですが、そもそも英語(フランス語も?)は「I」の領域と「You」の領域をきっちり区分することで世界と向き合うのだ、みたいなことが言われます(片岡義男とか)。まあそういうことなんでしょうね。それに比べると、やっぱり日本語は自他の領域をあまり区別せず場の状況全体を推移もふくめて写し取るようなところがあると思います。いにしえの日本語は議論証明の用途というより絵画音楽みたいな表現だったのかも。あるいは古代の言語はみなそうだったのかも。……というふうに考えてきて、日本語も英語も仏語もみな翻訳できるんだから、結局みな仲間だよなと、感慨を深めるのでありました。絵画や音楽それ自体は言語に翻訳できそうにない。エイリアンのメッセージも、鳥の歌も、さらにはDNAの暗号も、本当は人間の言語に翻訳できる相だけが翻訳できるにすぎない(のかもしれない)。

こういう話はつきませんね。またいろいろ発見を教えてください。

最後にひとつ(おなじみ)。《道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思うころ、雨足が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。


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■追記6.28

コメントの長いトンネルを抜けると、やっぱり主語があった(?)
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