東京永久観光

【2019 輪廻転生】

島国根性(硫黄島からの手紙)


話題としてすっかり古いが、映画『硫黄島からの手紙』と『父親たちの星条旗』をDVDで見た。GW中。

硫黄島からの手紙』は、身にこたえるところの多い映画だった。ASIN:B000N4SG2W

が、その前に、ふしぎに新鮮だったのは、日本人の顔つきで日本語をしゃべるにもかかわらず見たことのない役者が次々に出てくることだ。Wikipediaによれば、在米日本人をオーディションで集めたらしい。

あれが知った顔の日本の俳優ばかりでなかったことは、この戦場体験にのめり込むのに貢献したように思う。なぜかというと、たとえば学校に入学したての時期に全然なじみのないクラスの面々がみんなヘンテコな顔に見えるみたいな状況が、戦地に赴いた兵隊にもありえたように思うからだ。そしてそうした戦場を映画で鑑賞する者にとって、役者を見ていちいち「見慣れないやつ〜」とちょい不安なこの状況は、図らずも大切なリアルを運んでくれたように思うからだ。しゃべり方がおかしいとの不評もあるようだが、ややこなれない台詞まわしは、私が想像しきれない戦場の日常をあえて想像する場合に、むしろふさわしく聞こえる。1945年の日本兵のどんな台詞がリアルなのか、2007年の私はそもそも何も知らないのだ。

野崎という兵隊の快活さが印象に残った。なんとなく若いころの千葉真一に似ていないか。その野崎は、二宮が用便に行こうとするのを「気をつけろ、あそこには赤痢という敵がいる!」とかさっと指を伸ばして叫ぶ。なんだかアメリカナイズされた日本兵かなあとも感じるのだが、言い換えれば日本的湿っぽさを脱している人に見える。ところがそんな野崎も、やはり日本兵であることは免れず自爆せざるをえない。そういうわけで、私には、野崎があっけなく死ぬあの場面こそ、戦場の容赦ない恐怖みたいなものがひしひしと伝わってきた気がする。松崎悠希という役者さんだ。http://www.yukimatsuzaki.com/blog/ 

それにしても、この映画を見た日本の住人なら皆一様に首をかしげたに違いない。「え、裕木奈江? なぜ」 彼女も在米オーディション組というが、日本で好感度が高いとはけっして言えない。彼女の日本における微妙な位置というか、裕木奈江と聞けば「ああ裕木奈江ねえ」と必ず醸し出されるムードがある。それをクリント・イーストウッド監督やアメリカのスタッフは、薄々は知らされても、実際どういう意味なのかは判然としなかったのだろう。…いや私にも判然とはしないが、裕木が醸し出すものの実感だけは間違いなくある。

その裕木奈江がしかも36歳にして、あんな童顔の二宮和也の愛妻役。 「なんでわざわざ」。おまけに二宮はあれで一家の大黒柱という設定だ。我々はこの二人をそのようなキャラとしてはなかなか受けとめにくい。その二宮と対照的に加瀬亮はマザコンっぽい若造として出演するのだが、たぶん二人の役柄は逆だったほうがマシだ。(二宮の演技そのものには私は十分拍手を送りたいのだけれど)

そういうミスマッチが面白くもあった。愛國婦人会とかなんとかの女性が赤紙を持って二宮と裕木の家を訪ねるシーンなど、あの和服女性の顔や裕木の顔がふとお化け映画っぽい作りにも感じられ、怖くてちょっと笑った。

要するに何が言いたいか。『硫黄島からの手紙』はアメリカ側が戦時の日本をよく調査しよく理解して描いたと賞賛された。それはその通りだと思う。とはいえ結局のところ、たとえば裕木や二宮というキャラの核心部分を、彼らはついに把握しきれなかったのではあるまいか。あるいは、いろいろな日本顔があるとして、それらが実際の日本社会でいかなる顔を意味するのかは、やっぱりよくは分からなかったのではあるまいか。日本顔の年齢もあまり当てられないのではあるまいか。映画製作を通して日本軍兵士への共感や理解を深めたというクリント・イーストウッドにしても。

それを思うと、日本のハリウッド映画ファンなんて、こぞって知米派と呼ぶに値する。みんなホントにアメリカの男優女優やアメリカの都市に健気なほど詳しい、涙ぐましい。

とはいえ、ハリウッドが隣町のごとく感じる今の日本人ではなく、アメリカと戦争していた昔の日本人は「鬼畜米英」を口にし、実際そう実感してもいただろう。ではその日本の兵隊にとって、ズバリ鬼畜とはいかなるイメージだったのか。

こんなことを言うと低能と言われそうなのをあえて言うが、顔なのではないか。平均的英米国人の顔こそが鬼畜イメージに直結していたのではないか。敵と味方とはなにはともあれ顔の差だった可能性がある。戦場で右も左も分からず涙に鼻に小便まで垂れる破れかぶれの身にとって、「射て、殺せ」の最大のサインとは、味方とは明らかに違うその顔だった可能性がある。そんなことを私はこの映画を見ながら想像してしまった。

白い人は今なお黄色い人が不気味だろうか。黄色い人は白い人が今なお怖いだろうか。こういうことが今なお戦争遂行を直感的に十分加速しうるように思うので、だからこそ戦争や人種差別は理知のほうでテッテ的に遠ざけておきたいものでございます。

 *

「身にこたえた」という話まで行き着かなかった。「靖国で会おう」とか「生きて虜囚の辱めを受けず」とか、逆にそれらに対する「犬死に」とか、そういったフレーズで語られることについてやっぱり思いがいろいろめぐって身にこたえたのだが、それはまたいずれ。

 *

追記(6.5)二言だけ。

「あの戦争を遂行した人々に現在の国民はもう少し敬意を払ってもバチは当たらないのではないか」。そんなメッセージもこの映画から受けとめたように私は思った。そして、そうしたメッセージが、日本の支配層からではなく、ことクリント・イーストウッドから送られると、誰もあまりムキになって反発しないようにみえるのは何故なんだろう、とか考えた。

最悪にくだらないこの殺し合いから何をおいても自身を逃れさせるべし。上官の目をひたすらかいくぐって白旗をあげる、そのためにはいかなる手段も躊躇しない、まさにそこにこそ命を賭けるべし。それがよほど正しいと現在の私は思うのだが、映画のなかで既に捕虜となって拘束されていた1人の日本兵に、私は心の底から憧れや敬いの気持ちを持っただろうか?