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【2019 輪廻転生】

存在と時間と癌


筑紫哲也(71)が肺癌になった。少し前は小田実(74)が胃癌と伝わってきた。日本国民の3人に1人くらいは癌で死ぬのだから、ちっとも珍しい話ではない。最近の統計では、交通事故死が年に6千人あまり、自殺者は3万人台だが、癌の死者は30万人を超える。少なくとも、息子に頭を斬られる心配、晩飯食べに行って乱暴される心配をするくらいなら、自分が癌になる心配をしたほうがはるかにいい。

評判だった『ヤバい経済学』(asin:4492313656)に、アメリカの子どもにとっては銃よりプールのほうが危険という指摘があったが、似たような話だ。

そんなわけで、筑紫さん小田さんの年齢であれば癌にならないほうが珍しいとすら思われる。ただし、70〜80歳を超えてしまえば、こんどは死なないこと自体がきわめて珍しい。というか、なんでみんないつか必ず死ぬことをこれほどまでに心配しないのか。……という疑問については何度かここに書いた。

「自分が生きてるってヘンだ、面白いなあ」と「自分が死ぬってヘンだ、怖いなあ」は相通じるところがある。私という意識がここに在るということやそれが消えてなくなるということが、なんとも不思議なのだ。ところがその不思議も、「そもそも宇宙全部が無いのではなくて有るということ自体が途方もなくヘンだよ」という不思議の前には、ひれ伏すしかない。……みたいなことも前に書いた。

神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。

論理とか数とかガチガチに極めつくしたあげくに、ふっとこんなことを漏らすウィトゲンシュタインの気持ちとは、そういうことだったのかとも思う。『論理哲学論考』(asin:4003368916

ただし私がみるかぎり、『論理哲学論考』は、その「世界が無いのではなくて有るということ自体が神秘だ、というのはつまりこういうことなんです」という解説を書いた本ではまったくない。さらに、その神秘の前にはさすがにひれ伏すべき神秘だが、それでもふつうは最大の神秘と位置づけられる、たとえば「生きてるってヘンだなあ、死ぬってヘンだなあ」について解説した本でもない。そうではなくて、「生きるってヘンだなあ、死ぬってヘンだなあ、といったテーマだけが本当に哲学するに値するテーマなんですが、そのテーマは論理や言語をどのように用いても絶対に語ることはできないんです。何故かってというと、論理とはじつはこういうものだし、言語とはじつはこういうものだから、やっぱりほら、できないでしょ、ね。…はい、私がすべて証明しましたよ、おしまい!」という本なのだ(たぶん)。

ちなみに、『論理哲学論考』の直感は、論理の限界についてはほぼ間違いなかったけれど、言語のほうは、論理に比べて、使用上の不透明さや茫漠さをはるかたくさん抱えていることがどんどんあらわになっていき、ついには「言語は生と並ぶくらいの神秘と呼ぶべきではないのか」という印象すら与えるほどになっていくのが、ウィトゲンシュタイン哲学のその後と言えるかもね、と私はおもう。

でまあ「世界が有るってヘン」という究極神秘は今はさておくとして、ともあれ「生きているってあまりにもわからない、おかしい」というふうに、おそれかしこんだのがウィトゲンシュタインなら、「死んでしまうってあまりにもわからない、おそろしい」というふうに、おそれかしこんだのがハイデガーだったのだろうか。

そんなことを考えるようになったのは、岩波新書西洋哲学史 近代から現代へ』(熊野純彦)の最終章が「語りえぬもの」だったので「へえ」と思い、さらにそこにハイデガーウィトゲンシュタイン(とレヴィナス)の名が出てきたから「ははあ」と思ってページをめくるやいなや、ハイデガー哲学に関するほんの短い記述にぐっとはまり込んでしまい、「うんうん、そうそう、ああなぜだ、読んだこともないハイデガーさんの気持ちが、こんなにわかっていいかしら!」だったことから来ている。(asin:4004310083

それはそうと、「ハイデガー」という語感は「ハイデガー」という顔感とどこか相通じるものがある。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/images/916sonzai4.jpg

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筑紫哲也が編集長をしていた『朝日ジャーナル』を、私はずっと買って読んだものだ。1984年から1987年。第一弾の表紙には浅田彰の顔が大きくあしらわれていた。懐かしい。そのあと、TBS『NEWS 23』も信頼をもって視聴してきた。

でもそれから長い月日が流れ、テレビでみる筑紫さんを、いつしか疎ましく感じるようになってきたのも事実だ。

なぜだろう。筑紫さんが変わったのか。時代が変わったのか。誰にも間違いがあるように筑紫さんにも間違ったところが最初からあったのに、私は最初それを見ないで今になってそれが見えるようになったのか。それとも、変わったり間違ったりしてきたのは、筑紫さんではなく私のほうなのか。そのあたりはよく分からない。ただ、サヨク的なものやシミン的なものの良いところも良くないところも、私はこの人を通じてこそ、うまく感じとったり身につけたりしてきた、ということは言えるとおもう。でもいつしかそこに癌が……?

癌という比喩は日本社会の分析にいろいろに適用できそうで面白い。とくに肺癌は見つかりにくく治りにくい。自覚症状が出たときはたいてい手遅れなのだ。

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それと関連するのだが、通常のレントゲン検査では肺癌死を減らせないという驚きのリポートが、2年ほど前に厚生労働省から飛び出した。健康診断での胸部X線を廃止にする検討を同省が始めたのも、ちょうどそのころだ(その後どうなったのか)。もしかして、肺癌にはたいして役にたたないと分かっていたX線検査を、いろいろ利権もからんでただ漫然と大規模に続けているだけなのかもしれない。その代わりというように、最近は急にメタボ、メタボとうるさいが、そういうのも国民を騙しているのではないことを願う。

ちなみに、高度なCT装置などを使うと初期の小さな肺癌も発見できる可能性が高まるとも言う。筑紫さんもそれだったのだろうか。ただしこの検査は健康な人が人間ドッグなどで受診するにはずいぶん金がかかるはず。

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興味深いデータと考察
「リスク報道を超えて 死亡数によるリスク表現」
http://www.yasuienv.net/RiskSortedbyDeath.htm