東京永久観光

【2019 輪廻転生】

次のうち最も複雑なのはどれか A 自然 B 脳 C 映画 D コンピュータ


偽日記 07/04/20 に『時をかける少女』をDVDで見たとある。私も同日だったので、同じ国に生きていると思った(グローバル化された21世紀の日本だが)。

http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/nisenikki.html

そんなことはともかく。私はフツーに感動したのだけれど、偽日記を読んで、とても厳しいがとても新鮮な批判に目を開かされることになった。私なりにまとめると「すごくリアルっぽい。でもだからこそ、リアルを超えていない。陳腐」ということになる。

ぜひ考えてみたいのは、冒頭の《アニメは基本的に「絵」だということで、「絵」のリアリティは、描かれた対象との類似によっては決して保証されない》という指摘だ。

この指摘は、07/04/04 の偽日記(以下に抜粋)に関連すると思われる。

ぼくは自分が何故こんなにアニメ的な風景表現というか、風景描写が嫌いなのだろうか、と思った》。

例えば、春になって気候がかわり、それによって体調や気分に変化が起こることと、人を泣かせるためにつくられた物語によって悲しくなったり、昂揚させる物語によって気分が昂揚したりすることとは違う。人を泣かせる話は、あらかじめ「人を泣かせる」という目的に従って構築されたものの作用によって、人の気分が変化するのだが、春という季節はそれ自体としてあり、もっと複雑な組成をもち、それを人が感知して、ある気分がかたちづくられる》。

アニメにとっては当たり前の原理かもしれないが、それより私はむしろ、現実のほうが持っている決定的な豊穣さというものに気づかされた。(というわけで「迷わずブクマ」と思いきや、このサイトはできないので、決定的にもどかしかった)

確かに風景というのは人間にとって、自身の感情を投影し記載する場としてあらわれる。だからこそ作品にとって風景表現や風景描写は、作品の感情をたちあげるための基底として作用する》。《しかし、実際の風景は、そこに人の感情が投影されるにしても、人の感情の都合のみであらわれるものではない》。

たとえば。《桜は、人のある感情を的確に表現するが、それは(略)ある傾向の感情がもともとあるからこそ、人は桜に惹き付けられるのだが、同時に、実在する桜の形象が、人の感情を「桜」に見合ったものへと変形させ、補強させる。風景はおそらく、半ば内界にあるが、半ば外界へと繋がるものだ。(略)風景には内面が投影されるが、しかしその内面は実は、普段見ている風景によってつくられたものであるかも知れないのだ》。

これに対してアニメの原理。《作品における風景表現は、(略)まさに、ある感情を生むために、ある気分をつくるためにという目的に沿って、かたちづくられる。この時風景は、外界への通路を閉ざされる。このような風景は、たんに叙情へと流れる》。

そうして以下が決定打。

それは一見同じような経験に思えるかもしれないが、後者には、未だ発見されていないもの、意識化されていないものを、新たに発見するという可能性が、あらかじめ閉じられているのだ。(世界には常に、未だ発見されていないもの、意識化されていないものへの通路が開けているはずだ。)桜の何が、人にどのような影響を与えるのかということは、本当は「影響があらわれる前」には、決して分らないはずなのだ》。

 *

これにインスパイアされたことだが、ここからは、時をかける少女も偽日記も離れて、私自身が考えたこと。

04/04の偽日記を読んだあと、ゴダールの映画『軽蔑』を初めて見た(DVD)。その流れで『気狂いピエロ』も久しぶりに見たくなって見た(同DVD)。『軽蔑』のブリジッド・バルドーは奇妙でそれこそフランス人形みたいで面白いが、『気狂いピエロ』のアンナ・カリーナの魅力(魔力?)には到底かなわない。映画全体としても、なにかこう散乱していくものの鮮烈さ、広がっていくことの果てしなさにおいて、『気狂いピエロ』の方が勝ると感じた。『軽蔑』に室内シーンが多いせいもあるのか。

軽蔑ASIN:B0009J8KAY気狂いピエロASIN:B00006F1UZ

で、ここから本題なのだが、そもそも実写の映画というのは、現実の風景や生身の人間がそのまま記録再生される(視覚中心だが)。ゴダール作品が、物語や映画の約束みたいなものを無視してなお与えてくる、あまりにも強烈あまりにも豊穣なこれは、結局そうした風景や人間そのものの複雑さを、映画が図らずも見つけてしまう、あるいは観客が図らずも見つけてしまうところからくる、と言えるのではないか。

偽日記は「アニメ映画の人工風景は、実写映画の現実風景にはかなわない」と述べているのではない。私もそうは思わない。

芸術が自然をただ真似ようとしても、自然そのものの複雑さは超えられない。しかし、自然を真似るのではない表現を工夫するなかで、これまで私たちが知っていたのとは違った形式を新たに立ち上げることは可能かもしれない、ということだ。そのときは、人間の脳が自然を受けとめる形式として、ひとつ新しい形式が誕生しているのだ、きっと。人間の脳だって、それ自体はじつはものすごく複雑なのだろうから、何が飛び出すか分かったもんじゃない。それは、自然から何が飛び出すか分かったもんじゃないのと同じだ。

いや逆に、現実の風景や人間が映っているからといって、そういう意味での発見なんてもともと皆無という映画は、どうしたって明らかに多い。ゴダール映画などでつくづく目が覚めたように感じるとしたら、何よりそれなのだろう。

こういうふうに考えるベースとして、以下のような図式を作ってみた。

人間は、自然現象を、自らの脳の認知形式に従って受けとめる。しかし「自然そのもの」には、脳の形式に収まらない途方もない複雑さがあるかもしれない。

さらに。

芸術は、脳内現象を、自らの表現の形式に従って受けとめる。しかし「脳そのもの」にも、表現の形式に収まらない途方もない複雑さがあるかもしれない。

これは、話がちょいとややこしくなるものの、以前のこのエントリーとも関係すると思っている。
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20070101#p1

 *

さてさて、『時をかける少女』にもどるが、まったく独自の視点から絶賛している、東浩紀の評がこちらにある。

http://www.hirokiazuma.com/archives/000239.html

これはこれできわめて決定的な指摘なので、一読をおすすめしたい。ポイントと思ったのは以下の部分。

この作品が感動的なのは、「人生はリセットできない」でも「人生はいくらでもリセットできる」でもなく、「人生はいくらでもリセットできるが、ひとつの場面はやはりいちどしか経験できない、したがって成長は無意味ではない」という、とても肯定的な、しかも力強いメッセージを伝えてくれるからです》。

 *

ここまでをあえて総括するとこうなるか。

自然現象が複雑で偉大なら、脳内現象も複雑で偉大だし、芸術もそれに負けない。おまけにコンピュータだって、脳には絶対勝てないかというとそうでもなくて、時として脳から独自にすごい形式を引きずり出す。