東京永久観光

【2019 輪廻転生】

死の受容(唐突だけど)


死も老いも宿命。多くの人は老いることは現実的にとらえいろいろ備えているようだが、いつか死んでしまう、自分の世界も意識もすべてなくなってしまうということ自体には、あまり注意を払わないように見える。それが不思議といえば不思議。

老いることはそれが苦しいか楽しいかをある程度自分の努力で加減できる。どう死ぬかということもある程度加減(病気で苦しまないように安楽死するとか)できる。しかし、死んでしまうこと自体は、加減もなにも絶対避けられない。だから考えても仕方ないということだろうか。

私は、死ぬこと自体に備える必要もあれば、この先生きていく間に起こりうるいろいろな困ったことにも備える必要があると思うのだが、いったん、死ぬという宿命に真正面から向き合って考えれば考えるほど、死以外のいろいろなことなんて備えても仕方ないように思えたりすることが、通常の人よりは多いのではないかと時々感じる。いつかは必ず死ぬのに毎日会社なんか行ってられるか! と思ったりするわけだ。ただし、これは見方を変えれば、死ぬという困った問題にこだわることによって、死ぬこと以外のたくさんの困った問題を回避するという、安直な生き方かもしれないが。

しかし、それにしたって(死以外の困った問題をすべてクリアしたところで)、最大の困ったことである死が絶対やってくることは避けられない。さあどうしたもんか。分からない。ただ、今のところはまだ十分に先のことのように思えるので、悩むほどには至らず結論を先送りしているだけ。

それでも一つだけ思うことがある。この世が存在していることの意図というか深い仕組みのようなものが、なんらかの形で解けたり納得がいけたりすれば、私は死んでもかまわないと思えるのではないかという気がするのだ。

もちろん、本当は私が死ぬまでの間にそんな謎が解けたりはしないだろう。それは予想できる。でもいいのだ。この世というものや私の意識というものが、なぜか知らないけれど(存在していないのではなくて)存在しているということ自体が不思議でたまらない、その不思議さを成り立たせ支えているものは、きっと冷たいものではなくてとてもあたたかいものであるに決まっている、といった、ちょっと論理を超えた、そういう感覚がいわば科学的かつ哲学的にしっかり自分の中で持続しているならば、死ぬという宿命にも、本来はやりきれないほどむごたらしいはずの死にも、少しは救いがあるのではなかろうか。

こういうことを本当は長い時間をかけて考えたいのだと、つくづく思う。宗教にでも入ればよいように聞こえるかもしれない。もちろん、こういうことを本当にどこまでも考えていく宗教があれば尊重する。でも今のところ、たいていの宗教は、こういうことを自由自在に考えることのむしろ妨げにしかならないような印象だ。

(1999.10.22記述の文をリサイクル)