東京永久観光

【2019 輪廻転生】

村上春樹いろいろ


先日ちょっと眠れなくて、『1973年のピンボール』(ASIN:4061831003)を枕元に持ち込んだ。そうしたら飛ばし飛ばしだが最後まで行ってしまった。いやはや。驚いたことがもう一つ。これがきわめてしっくり面白い小説だったこと。これまで以上に明白に実感。そしてさらに強く思った。こんなヘンな語り口や展開を知らん顔して押し通すことで本当に小説に仕上がっていくのか、当の村上春樹が内心不安いっぱいだったに違いないし、それでもそれと裏腹の信念を図太く保って書き切ったところにこそ、この作家の独特にして希有の文学的姿勢が存するのではないか、と。

そんな流れで手にしたものがある。

世界は村上春樹をどう読むか」という国際シンポジウムがこの春 東大で開かれたそうで、その詳報が『文学界』6月号にある。その中の、ワークショップ2「グローバリゼーションのなかの村上文学と日本表象」を読んだのだ。

海外各国の専門家が、自国では村上春樹はこう読まれているという話を順に簡潔に報告していく。案内人は四方田犬彦ら。

全体として。村上春樹の小説は日本文化として無臭であるがゆえにグローバルに普及したのだろう、という前提から始まる。しかし結果的に見えてきたのは、春樹の読まれ方が国ごとにじつに多様であること、そして春樹小説がもつ日本固有のローカル性や歴史性だった。

これはこれで重要だが、報告される春樹ブームの実態そのものが、各国の社会事情や文学事情と絡んでいずれも興味深い。また、日本の我々が春樹小説から受けとめた内実を改めて分かりやすく確認している感じにもなる。

それと。韓国、香港、ロシア、ポーランド、ドイツ、フランス、ブラジル、カナダ、アメリカと、海外の論者が次から次へと出てきて村上春樹のことを当たり前のように語りだすのが、これまでそういう場を知らかったせいもあるが、なんとも壮観だ。

そんなわけで、村上春樹を読んだり論じたりする切り口が、そして実際の議論や交流の可能性が、ともにぱあっと花開いたように感じられる。なんだか非常にうれしい。

なんでうれしいのだろう。寿司が世界中で食べられていることで寿司の話を海外の人とできるのが楽しい、というのと似ているのか。そのとき、寿司が世界でどんなふうに食べられているか論じられているか、じつはもう日本の私は把握できないことも多いし、いずれ日本の食べ方や論じ方が中心とも言えなくなってくるのだろう。それでも、寿司の話となれば、それがどんなふうに転じようとやっぱり自分のことだというおかしな余裕がもてて楽しい、という感じだろうか。


 *


村上春樹の読み直し」を私的プロジェクトとして実践している。

(プロジェクトということを、仕事でしかやらないのは何故だろう、なんか貧しいじゃないかと気づき、個人的生活的プロジェクトをどしどし立ち上げるべしと思っている。いつから始めてもいいし、ずっと終わらなくてもいい)

1973年のピンボール』をこの前読んだのは(冒頭だけ)2年前。
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20040504

羊をめぐる冒険』もたしか2、3年前に読み返した。記憶よりすこぶる面白くてまいってしまった。それまで村上春樹ベスト1はずっと『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』だったが、以後この2作が並ぶ。

その『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と『風の歌を聴け』は、最初から面白く、何度読んでも最大級に面白い。

逆に、『ダンス・ダンス・ダンス』は、このあいだ読み返し、評価が下がった。
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20060423
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20060424
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20060526

ま、キリがないのでこの辺で。


 *


書き忘れたことを追加(10.6)

蓮實重彦は『海辺のカフカ』を「読んでいないけれど、あれは結婚詐欺の小説だ」(趣旨)と断じた。このように村上春樹を文学の対象としてまともに扱わない姿勢をずっと崩さない批評家も、日本ではむしろ目立つ。

村上春樹はただの回転寿司なのだろうか。それともまともな寿司屋の寿司なのだろうか。この問題は、誰がジャッジするのかは知らないが、ともあれ日本では決着していない問題とも言え、つくづく面白いものだと思う。ノーベル賞をとったら急に格が上がるのだろうか。しかしこれらはいずれも他人の評価にすぎない。私個人は村上春樹が極上の寿司だと胸を張って読んできた(最近ちょっとまずい寿司もあったけどね)。

さて。そもそも小説を読むことは自分の個人生活や社会生活にとって「ストック」たりうるのか「フロー」でしかないのか。てなことをときどき考える。村上春樹の評価が国内外で高まることは、読む人の数や読まれる期間が増すことを意味する。そのおかげで、村上春樹の小説を読んだこの体験は、きっと「ストック」として機能していくのだろう。日本においてますます、世界においていよいよ。楽しみだ。