東京永久観光

【2019 輪廻転生】

映画つれづれ


溝口健二の映画をNHKで少し前に特集していた。
まず『山椒大夫』をみた。(asin:B00005GEAY
「平安末期の様子がとてもよく分かりました」
‥なんて書くと、あまりに幼稚だろうか。
しかし、国司とか荘園とかその微妙な力関係とか、
歴史の時間に教わっても、うまく思い描けずにいた事項が、
なるほどこういうことかと、ようやく実感できた気がしたのだ。
次にみた『平家物語』。これも、
武士がまだ低い身分で貴族に牛耳られていた頃の実際を、
はからずも目にすることになった。
僧兵なんていう存在も、教科書ではやはり実感しづらいが、
この映画ではああなるほどとうなずける。
考えてみれば、映画というのは、街の光景も家の造りも服装も、
とにかく具体的に用意して見せないと成立しない。
その結果、映画は、
実際の体験に近いほどの強烈な知覚と記憶を、みる者に与えてしまう。
これまた当たり前みたいな感想だが、
その凄さをあらためて思った次第。
だいたい平安時代なんて、
そもそも我々にどんなイメージが抱けるというのか。
関白や右大臣と言われて、どうイメージすればいいのか。
あるいは、むしろこう思う。
「イメージ」というような概念あるいは認知の仕方は、
我々が写真や映画に接して初めて身につけることになった
のではなかろうかと。
 *
テレビでやってる映画をついみてしまうのは、
仕事のプレッシャーを一時忘れたい場合も多い。
そういうとき、読書ではなかなか頭の切替えが難しいが、
映画だと、あまり努力せずともその世界に没入できる。
やっぱりそれだけその時間の体験の大半を奪ってしまう、
と言ってもいいのだろう。
NHK-BSは土曜日の夜になると『男はつらいよ』シリーズをやる。
ああまた週末かと思い、なんだかとにかく気楽な時間を過ごしたくなって、
ついテレビの前に座ってしまう。
同じパターンのストーリーをなんでこう毎回みるかなと、
自分で自分にぼやきつつ。
そうこうしているうちに、寅さんという人物は、
虚構と知りつつも、知覚や記憶としては
実体験と同じような強さで定着しているのではないかと思う。
なお、これにからんで、
渥美清という人物は、映画以外のメディアで
姿をまったくといっていいほど見せなかったという事情がある。
そのせいで、我々はどうしても、未知の人物である渥美清に、
既知の人物である車寅次郎としての親しみを覚えてしまう。
それは避けられない。
同じNHKが先日放送した「渥美清の肖像 知られざる役者人生」は、
そんな思いを巡らせるにもぴったりの番組だった。
そんなこんなで、渥美清の実像に私はたしかに非常に興味を引かれる。
ただそれはやっぱり
車寅次郎という人物への郷愁と混じったものでしか
ありえないようにも思う。
さて、ここまでの話に結論があるわけではない。
ただ、繰り返しになるが、
映画というのは、ぼんやりみているだけであっても、
そうとう強烈な体験を植え付けてしまうのだなあとは思う。
その恐ろしさを思う。
 *
溝口健二は日本映画の古典という位置づけのようで、
山椒大夫』などもネットに数多くの評があり、観賞後の楽しみが増す。
たとえば、
http://www.manabi.pref.aichi.jp/general/10000281/0/html/section9.htm
以下にある「篭瀬山」という人の評もなるほどと思った。
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=136291


 *

このほか、
『キリング・フィールド』(ASIN:B000657NB8)そして
ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(ASIN:B00008NJFX)
も同じくNHKでみてしまった。
(どちらも長い映画だが、途中でやめられるはずもなく、
 忙しい時期にやぶれかぶれ気分だった)
これらの映画も、よくあれだけリアルにこしらえたものだ、
という感想は必ず出てくるだろう。
ポルポト時代のカンボジアとは、あんな風だったのか。
‥とこれだけがあまりに強い記憶になってしまうのもどうかと思うのだが。
なお、『キリング・フィールド』は、
エンディングの音楽(マイク・オールドフィールド)が
本編と並ぶほど特異な印象で、これまた消えない記憶になっている。