東京永久観光

【2019 輪廻転生】

もやもや顔とくっきり顔


ブログをよく知っている人の顔を初めて(これまたネット上だが)知るという体験をした。

ある人について声をまず電話で認識するということは仕事などで多い。しかし電話しながらその人の顔をさしたる根拠もなく漠然と思い浮かべている。後で実際会うと想像とはずいぶん違っている。私の場合だけだろうか、そういうことはとても多い。それが面白い。

まだ声しか聞いていないのに、いかなる仕組みでその顔が思い浮かぶのだろう。見た記憶のある顔と見た記憶のない顔では、思い浮かべる機構は同じではない気がする。だったらその時本当に「顔を思い浮かべていた」と言えるのだろうか。

さらに面白いのは、実際の顔を見てしまうと、会う前に声とともにモヤモヤ漂っていた「顔もどき」は即座に消え去ってしまうことだ。「顔もどき」はもう思い出せず、その正体ももはや追求しようがない。

同じ話。中学生くらいから世界地図を見ていて中国とソ連の間にひたすら茶色っぽい内陸の国があり鉄道の線もただ一本通っていて「ウランバートル」とかいうヘンな響きのカタカナが書いてある。どんなところなのだろう。まったく分からない。それでもそのウランバートルの「風景もどき」は長年ただモヤモヤと思い浮かべていたと思う。そしてそのモヤモヤは、大人になってウランバートルに実際行って眺めた日に消えた。つまり、その日からあのモヤモヤした「風景もどき」はもう二度と現れない。面白いがちょっと寂しい。地図上だけのウランバートルを私はいったいどんなふうに思い浮かべていたのだろう。

ブログは顔はおろか声すら出ない。メールもそう。でもまあ平気でそこから人格を受けとめている。何か決定的な変化が起こっているのだろうか。顔や声のイメージなしに人物を認識整理できるようになりつつあるのだろうか。でも毎日ブログを読みながら、その人の顔はやっぱりモヤモヤと思い浮かべているようにも思う。ちなみに私は、ブログの文章を好ましく思っているかぎり後で知ったその顔がいかなる顔であれ同じく好ましく映る。でも前はどんなふうに思っていたのだっけ?

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