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【2019 輪廻転生】

利己的な遺伝子


進化によって生き延びるのは遺伝子であり、生物の身体はその乗り物にすぎない。‥‥と言われると「それってだいぶ前から聞いてるよ」と思う。つまりこの見方はすっかり定着した。そしてこの見方がリチャード・ドーキンス利己的な遺伝子』を通して世に躍り出たこともまた、よく知られている。(ちなみにこんなふうに広がるものこそがミームというわけだろう)

その『利己的な遺伝子』を初めてちゃんと読んだ。今年出た増補新装版。つまりちょっと変異したバージョン?

利己的な遺伝子 ASIN:4314010037 ASIN:4314005564


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進化が起こるのは、種の単位でないのはもちろんだが、個体の単位でもなく、ズバリ遺伝子の単位である。やはりとにかくドーキンスはこれを繰り返し主張している。

鳥の群れに敵が現れたとき、ある一羽が自分を犠牲にして敵を誘導しその結果群れ全体が守られる、といった現象がある。これは進化論の前提である個体どうしの生存競争という条件に合わない。そこで「種全体の繁栄のために個体は自分を犠牲にすることがある」という解釈が出てきた。「種淘汰」「群淘汰」などと呼ばれる解釈だ。初版の頃すでに反論も出ていたというが、『利己的な遺伝子』は特にそこに切り込んでその解釈を完璧にやっつけた。このあたりにこそ、進化論が20世紀半ばの展開していった焦点があったと言われる。

同書は「進化とは個体が生き延びること」と見たのでは説明できない生物の複雑な行動を次々に示す。そして「進化とは遺伝子が生き延びること」と見方を変更することで、ことごとくきれいな説明を示していく。たとえば、働きアリや働きバチは、自分ではなく他のアリやハチを生かすことに懸命になる。それは個体が生き延びる結果にはならない。しかし自分と同じ遺伝子が複製される結果にはなっている。それらをまとめて眺めたとき、個体はときに利他的だが、遺伝子はあくまで利己的だ、と括れるわけだ。

これは進化の独特の見方だったのだろう。しかし見方だけでなく、ドーキンスはある重要な事実も指摘した。「個体なんてずっとは生き延びないじゃないか」という単純な事実だ。生物は自分の身体自体を複製するわけではない。それに、性を持つかぎり自らの遺伝子は子に半分しか伝わらない。クローンでも作らないかぎり遺伝子セットの完全コピーは残せないのだ。したがって、個体とははかないものだ、たった1個しか存在しないのに生存競争もなにもないだろう、とドーキンスは言う。ところが遺伝子という単位なら確実に複製が行われ永続していく。進化が個体では起こらないと強調するのは、結局こうした忘れがちな事実を強調したかったのかなという気もしてきた。

ちょっと引用。

《個体の体は、それが続いている限りは十分独立しているようにみえるがそれがいったいどれだけ続くだろう? 各個体はユニークである。だが、実態のコピーが一個ずつしかないときに、それらの実体間に淘汰がはたらいて進化がおこることはありえない! 有性生殖は複製ではない。個体群が他の個体群によって汚染されるのと同様に、ある個体の子孫は性的パートナーの子孫によって汚染される。あなたの子どもは半分のあなたでしかないし、あなたの孫は四分の一のあなたでしかない。数世代を経たときに、あなたが望めるのはせいぜい、あなたのわずかな部分をもって、つまり数個の遺伝子をもった多数の子孫をもつこと――たとえばそのうちの幾人かがあなたと同じ苗字を名乗っているにしても――である。
 個体は安定したものではない。はかない存在である。染色体もまた、配られてまもないトランプの手のように、まもなくまぜられて忘れ去られる。しかし、カード自体はまぜられても生き残る。このカードが遺伝子である。遺伝子は交叉によっても破壊されない。ただパートナーを変えて進むだけである。もちろん彼らは進み続ける。それが彼らの務めなのだ。彼らは自己複製子であり、われわれは彼らの生存機械なのである。われわれは目的を果たしたあと、捨てられる。だが、遺伝子は地質学的時間を生きる居住者である。遺伝子は永遠なのだ。》


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でも実をいうと私は、ドーキンスの見方になんとなく違和感がある。

もともと生き物は目的や意図をもって進化(変化)するのではない。種も個体も(人間をべつにすれば)そうした目的や意図をもっていないし、そういう目的や意図をもったとしてもそれが反映されて進化が起こるのではない。それと同じく、遺伝子もまたそうした目的や意図はもっていないし、そういう目的や意図が反映されて進化が起こるのでもないだろう。(もちろんドーキンスだって「遺伝子が意図や目的をもって競争する」などと思っているわけはないだろうが)

ある個体が他の個体より長生きすることでその子孫だけが繁殖するという事実がある。さらにいえば、ある種が他の種より長く存続するという事実もある。自然淘汰もしくは適者生存とは、要するにその事実のことだと私は思う。そして、特定の遺伝子が複製されて存続するかどうかは、そうした個体や種が生き延びた結果にすぎない。これもまた事実だろう。遺伝子Aと遺伝子Bは、個体Aと個体Bが生存競争をするようには、生存競争することなどないのではないか。

そんなわけで、個体が生き延びるのを進化と見ようが、種が生き延びるのを進化と見ようが、遺伝子が生き延びるのを進化と見ようが、いずれも成立するように思うのだ。

「淘汰されるのは種か個体か遺伝子か」という拘りは、「火事で燃えているのは家か木材か炭素か」といった拘りに似ている気がしないでもない。


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ところで、『利己的な遺伝子』は「ミーム」という独創的なコンセプトを提示したことでも有名。ミームについては、比喩とも限らぬような大胆な説明をしていて、非常に印象的だった。

《遺伝子を単位とする古い進化は、脳を作り出すことによって、最初のミームの発生しうる「スープ」を提供した。ついで自己複製能力のあるミームが登場すると、彼らは、古いタイプの進化よりはるかに速やかな、独自のタイプの進化を開始したのである。われわれ生物学者は遺伝子による進化の考え方にすっかりなじんでしまっているので、それがじつは、可能な多種類の進化のうちの一例にすぎぬことを、ともすると忘れてしまうのだ。》


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進化論はダーウィンに始まるが、現在ではネオ・ダーウィニズムや総合説と呼ばれる理論が標準的なものとされる。『利己的な遺伝子』はその総合説の教科書的な位置づけ、なのかも。
ちょいと関連:http://park.itc.u-tokyo.ac.jp/sakuralab/topics/books.htm