東京永久観光

【2019 輪廻転生】

要するに小説は面白いということ


ちょっと気分転換に、という用途で手を出す本でもないのだろうが、ギュンター・グラスブリキの太鼓』を今日はひもといてみた。

映画は何度か見ていて、オスカルの祖母がオスカルの母を身ごもった時のシーンを知っている。だから、それがどれほど長ったらしく書かれていても非常に楽しめる。しかし、もしそれを知らなくて読み始めたなら、これは何をほのめかしているのかと困ってしまったかもしれない。それでも、読みとれるかどうか微妙なものをじわじわ読みとっていく、あるいは、読みとれず宙ぶらりんのままで後から気づかされる、といったヒネくれた面白さが、小説の文章というものに共通してあるのは確かだ。さらに、もう知ったうえでそれを反芻してみることもまたいっそうヒネくれて面白かったというわけで、これもまた小説の正当な面白さなのだろう。(「そんな無駄にヒネくれた面白さなど要らない」「忙しいんだから負担かけないで」と思ってしまうと、なんか割に合わないのだが)

そのシーンとはつまり「スカートの下で性交している」シーンだ。この「スカートの下で性交している」という全体像が分かれば、バラバラだった描写が一挙に整理されあっけなく納得できるのだ。そうでないと、細かい像がいくら積み重なっても、かえって消化不良で耐えられなくなってくる。

さらに、「子供はこうして作る」という概念自体がまだまったくない年齢の読者であれば、ここは理解しようがないだろう。あるいはこうも言える。このような描写の想像をとおして味わっているのは、「子供はこうして作る」ということが自分の頭に初めて定着した日の驚きみたいなものかもしれない、と。

さらに、そのすぐあと、《とにかく太鼓の語るところはこうである》なんていう一行が出てくる(高本研一訳)。これまた映画によって既に視覚で把握しているからいいものの、そうでなければ「太鼓が語る? なんだそれ」と宙ぶらりんな状態になり、それをどこまで楽しめるか、どこまで耐えられるかの勝負になっていくだろう(まだ先は知らないけれど)。

先日紹介した『考える脳 考えるコンピューター』によれば、大脳新皮質の仕事とは、ひとえに、具体的なデータの集積から抽象的な意味や概念を見いだすことだ。つまり、「目がある」「口がある」「鼻がある」から「これは顔だ」を見いだすこと。ある小説の世界に入っていくプロセスも、けっきょく似たことなのだろう。さまざまなほのめかしから「スカートの下の性交」と気づくところに、私たちの大脳の大脳らしい働きがある。http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20051011

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「子供はどうやって作るか」を知らない人にあのシーンが意味をなさないのと同じく、グダニスクダンツィヒ)という都市がどういう所なのか、その歴史をまったく知らないと、やはりこの小説はいくら頑張って読んでも無意味なのだとも感じた。といっても、実は世界中の人にとって、歴史というのは勝手に想像以上の共通知識になってくれているものであって、何を見聞きするにも必ず強固に普遍的に作用してくるように思われる。こういう小説を読むと、自分の無知をまたまた思い知らされると同時に、自分がちらっとでも知っている程度の歴史にも、世界のあらゆる出来事は結びついてくるのだと思い知る。そして、小説を読むことはその歴史を精彩にしていくことだし、それがなにより面白くもある。

歴史が普遍的な知識だというのは、あらゆる小説において、たとえば「徳川家康江戸幕府を開いた」といちいち書いてなくても、それは暗黙の了解ということ。そんなこととまったく無縁の小説であってもそうなのだ。もちろん徳川家康江戸幕府を開かなかった設定の小説もありえるわけだが、その場合はそうでないことが必ずなんらか示されなければならないし、しかもそのことはその小説の本質にならざるをえない。これは、ある登場人物に「目は2つあった」なんていちいち書かないのと同じだ。先生からもらった「夏休みの注意」に「町に出て人を殺さないこと」とは書いてないのと同じだ。

小説は虚構だとばかり思っているけれど、ほんとは登場人物だけが虚構なのであって、あとはすべて世界の事実に立脚している。そう言っていいのかもしれない。

歴史というのはみな繋がっているし、地上のどの都市も道や河を介してあるいは海を介して繋がっている。そのように繋がって組み上げられたものの全体像を、我々はおのおのが長い年月をかけて精彩にしていくのだろう。それが精彩であればあるほど、つまり歴史や地理に詳しければ詳しいほど、このような小説は楽しいのだろう。

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《ぼくの生まれるずっと以前のことから話を始めよう。というのは自分がこの世に生を享けた日付を書きしるす前に、せめて祖父母の片方だけでも思いだす根気のない人間は、だれも自分の生涯を書きしるすべきではないからだ。》

主人公オスカルはこのように自分語りを始める。なるほどそうだよなと妙に深くうなずく。それでもし私が自分語りを許されたら、さて誰のことから始めようかなどと思ったりする。

しかし、自分の思い出の中で祖父母というのは必ず年をとっている。だから祖父母の若い姿などというのは、よほど理由がないと想像してみることがない。想像するとしたらどんな場合だろう。このような小説を書いてみるような場合だけが、その貴重なチャンスなのではないか。

若かりし祖父母。この世に写真がなかったら、それはなおさら想像しにくいはず。それと同じく、この世に小説がなかったら、もっとなおさら想像しにくいかもしれない。

ちなみに。そのスカートのシーンは1899年のことだったと明記されている。まったく余計な話になるが、私の祖父の1人が生まれたのがこの年(明治32年)なのだ。19世紀の生まれだったとは(すごいねどうも)! で、今は自分語りをする段ではないけれど、この祖父けっこう読書好きだったと思われる。小泉八雲の『怪談』を祖父の本で読んだ。かすかに覚えている。そういえば、小学校の図書館から借りてきた江戸川乱歩の本について、なにか言葉を交わしたことがあった気もする。それがどうしたと言われるかもしれないが、「自宅の本棚にあった文学全集を子供の頃から読んでまして…」なんていう環境が私の生家にはまったくなかったみたいなので、本の記憶とはたった1冊でも私にはとても大切なのだ。

それはそれとして。グダニスクがどうとか、祖父が『怪談』を持っていたとか、大小どのような事実であれ、もしそれを事後に一度も思い出すことがなければ、記憶としてあるいは歴史として(あるいは事実としてすら?)成立しないのではないか。我々は起こっている出来事を事実としていちいち書き留めてきてはいない(ブログはちょっとそういうところがあるから凄いけれど)。「私の祖父は読書が好きだった」という記憶や歴史は、私自身にとってすら最初から事実だったわけではない。たぶんある時点でそれを私がふいに思い出し概念化抽象化させたとき、初めて事実になったのだ。

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気分転換しすぎ。仕事に戻ろう。…と思ったら週末ではないか! ともあれ『ブリキの太鼓』は、しばらく先になるが絶対読まずにはいられない。

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