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【2019 輪廻転生】

★考える脳 考えるコンピューター/ジェフ・ホーキンス 他


 考える脳 考えるコンピューター


たとえば、ある写真を見せられて「そこに猫はいるか」と問われれば、我々はすぐに分かる。ところがコンピュータにはなかなか分からない。同じように、飛んでくるボールを我々は容易にキャッチできるが、ロボットには難しい。クロック数ならコンピュータのほうが脳をはるかに上回るのにだ。

こうした事情はよく知られていて、だから人間の脳にはなにか独特の仕組みがあるはずだ、と誰しも思う。しかし、ではそれはいかなる仕組みか、人間の脳はコンピュータとどこが違うのかとなると、専門家も結局「むにゃむにゃむにゃ」となってしまい、「いや〜不思議ですねえ」となごむしかなかった(かどうかは知らない)。ところが、このたいして厚くもない本が、ひとつの決定的な解答を示してしまったようにみえる! 

最短でまとめるなら、コンピュータは一から「計算」をしているのに対し、脳の新皮質は「記憶にもとづく予測」をしている、ということになる。さらに引用すると…

《脳は膨大な量の記憶を使い、現実世界のモデルを形成している。人間のあらゆる知識と認識は、このモデルの中に蓄えられている。脳は記憶にもとづくモデルを使い、将来の出来事を絶え間なく予測する。未来を予測する能力こそが知能の本質だ。》(訳=伊藤文英、以下同)

《人間の脳は蓄積した記憶を使って、見たり、聞いたり、触れたりするものすべてを、絶えず予測しているのだ。わたしが部屋の中を眺めるとき、脳はいつも記憶を使い、何を見るはずであるかの予測を、実際に見る前にたてている。(…)脳のさまざまな部分が勝手に独り言をしゃべるなら、おそらくこんな感じだ。「コンピュータは机の真ん中にあるか? ある。それは黒いか? 黒い。電気スタンドは机の右側のすみにあるか? ある。辞書はわたしが置いた場所にあるか? ある。窓は四角く、壁は垂直になっているか? なっている。太陽の光は日中のこの時間に射し込むべき方角から射し込んでいるか? 射し込んでいる」などなど。だが、新皮質に記憶されていないなんらかのパターンが目に入ったとき、予測はくつがえされる。そして、わたしの意識はその予想外の何かに引きつけられる。》

《ボールをつかむ方法は、脳に組み込まれた手順ではなく、何年にもわたる訓練の繰り返しによって学習された記憶だ。ニューロンはそれを蓄えるのであって、計算するのではない。》

これだけではやっぱり「むにゃむにゃむにゃ」だろうか。しかし、「記憶と予測」という枠組みは、人間の知能をめぐる導入であり結論でもある。その多岐にわたる考察を追うなかに、発見と驚きが次々に溢れてくる。しかも多くは日常の実感として気づかされる。同書を通読すれば、必ずどこかで、この種のテーマにおける最も痒いところに手が届くだろう。


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書き留めておきたいことは、まだいくらでもある。きちんと整理するのは面倒だが、このままうっちゃっておくのはいくらなんでも惜しい。というわけで、以下ひたすら長い。(なお引用符で囲んでいない部分は、かなり言い換えたり端折ったりしている)


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我々は、脳が機械と変わらないと感じるときもあれば、機械とは違うと感じるときもある。それは、脳のどの働きの話か、あるいは機械のどんな仕組みの話かを、そのつど案外しっかり見ているからであり、混乱しているわけではない。そこのところが、この本で明瞭に確かめられた気がする。

著者ジェフ・ホーキンスは、人間の知能はコンピュータでは実現できないと、まず宣言する。そうすると、脳は神秘であって物質には還元できないという立場かというと、まったく違う。むしろ、知能は機械に置き換えられるという立場を積極的に打ち出している。机上の空論ではなく知能を持つ機械を自ら製作したいという動機も一貫している。ただ、そのときコンピュータという機械にこだわっていては、脳とは仕組みが大きく異なるがゆえに、人間と同じ知能にはなりえないという主張なのだ。コンピュータを熟知する専門家としてそこを鮮明にする。

しかもホーキンスは、脳の部位として新皮質に注目し、脳の機能としても知能に限定して話を進める。感情や欲求などを含めた人間の心全体について説くのではない。

そうして知能の新しい定義を示す。それがすなわち「記憶と予測」というわけだ。この定義によれば、上で触れたとおり、知能とはコンピュータがやるような計算を意味しない。さらに「チューリング・テスト」「中国語の部屋」という有名な思考実験にも言及し、知能を「入力に対する出力」「振る舞い=行動」として捉えるから、人間と機械の区分ができなくなるのだ、と総括している。

《この本で主張することの一つは、理解したかどうかは外側から見える行動では判断できないというものだ。行動ではなく、(…)脳がどうやって物事を記憶し、それを使って予測をたてているかという、内側の活動が基準になる。中国語の部屋も、〈ディープ・ブルー〉も、コンピューターのほとんどのプログラムも、この活動に相当する機能を持っていない。(…)コンピューターの行動、すなわち出力がどれだけ知的に見えたとしても、そこに知能は存在しない。》

《予測は脳の単なる一つの働きではない。それは新皮質の「もっとも主要な機能」であり、知能の基盤なのだ。新皮質は予測のために存在する生体組織といってもかまわない。知能とは何か、創造性とは何か、脳はどのように働いているのか、知能を備えた機械はどうすればつくれるのかを知りたいなら、予測の本質をあきらかにし、それが新皮質でどのようにたてられているかを解明しなければならない。人間の行動でさえ、予測の副産物と解釈すると、もっとうまく説明できる。》

《予測はあらゆる場合におこなわれているので、もはや人間の「認識」、すなわち、現実世界がどのように見えるかは、感覚だけから生み出されるものとはいえない。人間の認識は、感覚と、脳の記憶から引き出された予測が組み合わさったものなのだ。》


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「記憶」なんて我々には身近すぎるので、それがなぜ注目に値するのかピンとこないところもあろう。しかし、脳における記憶とは、実に巧妙かつ独特の成り立ちをしている。ついコンピュータのデータ保存のごとく単純にイメージしがちだが、そうではない。人間の記憶とコンピュータの明らかな違いを、ホーキンスはいくつかのキーワードで強調する。

たとえば、我々が何かを記憶したり思い出したりするのは、必ず、ある「シーケンス」すなわち時間もしくは手順の流れに沿ってであること。自分の家の中について説明するにときも、好きな歌を思い出したり歌ったりするときも、そう。そもそも我々は1つの出来事についてしか話せないではないか、とも言う。

《一つの出来事しか話せない本当の原因は、物語が頭の中にシーケンスとして記憶されていて、それと同じ順番でしか呼びだせないことにある。物語の全体を一度に思い出すことはできない。実際のところ、シーケンスのかたちをしていない複雑な出来事や概念は、人間には理解さえできない》。

さらに、我々の行動もまたシーケンスとして記憶されているとして、シャワーを浴びたあとタオルで身体をふくとき半ば固定した順序にしたがっている、という例をあげる。

前々から不思議だった。懐かしい歌を覚えていたり歌ったりするとき、歌そのものが脳にまるごと保管されていて、それを引っ張りだしているわけではないだろうと。パソコン(iTunesでもなんでも)が音楽データをディスクに保管あるいは再生するのと同じではないだろうと。こうした素朴な疑問をじっくり検討することで、脳とコンピュータの違いはじわじわイメージできるのかもしれない。


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また、「普遍の表現」というキーワードは、まさに記憶の本性に迫るものと言える。

これも音楽の例が実感しやすい。ある歌を覚えているとき、元の歌と調が変わっても同じ歌だと分かる。それは、脳が音波や耳の振動そのものを保管しているのではなく、「普遍の表現」つまり個別の音や調を超えたフレーズとして歌を記憶しているから、というわけ。また、ピアノを弾いた経験が、別の楽器であるビブラフォンを初めて弾くときに役立つのも、記憶の普遍性を思わせる。いずれもロボットにはできない相談ということになる。

《人間はある瞬間に網膜に映った像を覚えるのでも、ある瞬間に蝸牛殻や皮膚が受けとったパターンを記憶するのでもない。新皮質の階層構造によって、物体の記憶は単一の場所ではなく、階層全体に分散されて保持される。》

《記憶を蓄え、思い出し、比較する作業は、すべて普遍の表現のレベルで起こっている。これに相当する概念は、コンピューターには存在しない。》


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「記憶と予測」は理論だけにとどまらない。ニューロンが実際にこのようにネットワークしていれば、記憶と予測のそのような仕組みは可能だという仮説が、かなり詳しく提示される。

ニューロンはコラムと呼ばれる集まり(サッカーの1チームみたいなものだと思えばいいだろう)を形成し、脳はそのコラムが最小単位となって働いていると一般に考えられている。仮説の1つは、このコラムの内部でニューロンどうしがどのように役割分担しているか(サッカーチームにどんなポジションがあってそれぞれどんな役割でボールを受け渡すのか、みたいなこと)、またコラムの外部とどのように情報をやりとりしているか、についてだ。

また、ニューロンのチームであるコラムは脳のなかに無数にあるわけだが、その無数のコラムが全体としてどのように編成されているかが、仮説のもう1つだ。それによれば、コラムは会社や軍隊の組織のようなピラミッドつまり階層を成している。そこでの作業は、たとえて言うと、目や耳や皮膚からの入力を、まず大勢の平社員(コラム)がキャッチし、それぞれ任された部分や観点だけに関して「こんな形です」「こんな音がします」「こっちに来ます」といった情報を直属の上司(コラム)に報告し、上司はそれらを「自動車が近づく」といった抽象化・普遍化した情報に統合してさらなる上司(コラム)に報告する、といった要領だ。この作業がどんどん上へ上へと繰り返されるなかに、普遍性をおびた記憶が分散して形成されるというようなことだ。

さらに、これまであまり重視されてこなかったある事実に、ホーキンスは注目する。

それは、下位のコラムから上位のコラムへ情報がどんどん上っていくだけでなく、逆に、上位から下位へとどんどん下ってくる回路が平行して存在するという事実だ。これは、部下のコラムが「なんだかわからない形です」と報告してきたような場合に、上司のコラムが「他の情報を総合すれば、それは車ではあるはずだから、たぶんトラックだろう」と考えて、「それはこんな形ではないか」とサポートするような回路と思えばいいだろう。そして大事なことは、我々の知能の本質というべき「記憶と予測」が正しく機能するためには、回路がこのように双方向であることが不可欠だと考えられることだ。

《…新皮質の重要な機能が予測をたてることだと気づいた途端に、脳のモデルには逆方向のつながりが必要になる。最初の入力を受けとる領域へと、情報を送りかえしてやる必要がある。予測をするためには、起きると思ったことと実際に起きたことを、比較しなければならない。実際に起きていることが階層をあがっていき、起きると思うことが階層をくだっていく。》

おまけにこの辺から、感覚と運動はニューロンのネットワークとして対称性をもつという発見も出てくる。つまり、運動においては、上司のコラムが発した抽象的な指令が部下の多数のコラムに到るなかでどんどん具体化され、それが運動器に伝わって出力される。逆に、感覚においては、感覚器から部下のニューロンに入力された多数の具体的な情報が、上司のコラムに報告されるなかでどんどん抽象化されていく。


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ニューロンの実態という点では、ホーキンスが最初から特別の驚きをもって紹介する話がある。それは、脳にある無数のニューロンがみなきわめて均質であるという知見だ(マウントキャッスルの論文)。それを読んでホーキンスは、椅子から転がり落ちるほどショックを受けたという。

《人間に認識される情報は、軸索から入ってくる空間的、時間的なパターンにかぎられている。》
《新皮質は実際のところ、直接には、現実世界を理解しても、感じとってもいない。唯一の知識は軸索から流れ込むパターンだ。》

ホーキンスは、これを自らの理論に当てはめ、あらゆるニューロン(コラム)は、「1つ下の階層から受取った入力情報を統合・抽象化して1つ上の階層に送る」というアルゴリズム(およびその逆のアルゴリズム)だけで動いているのだ、という見方に到る。脳のどこを取ってもニューロンは淡々とこの仕事だけをしているのだと。

我々にとって、目の感覚と耳の感覚ははっきり区別できるし、ましてや身体を動かすこととなればまったく別のことだ。しかし、ニューロンの活動という次元では、感覚と運動を含めたこれらすべてを区別できないことになる。報告にせよ指令にせよ同一の信号がニューロンからニューロンへ同様に行き交っているだけなのだ。

感覚・運動・意志・行動といった区分けすら、脳という均質なシステにおける微妙な差異の現れにすぎないのかもしれない(このへんは私が漠然とした印象だけで書いている)。

厳密な関連でもないが、次も参考までに。

《予測と行動が緊密に連係し、パターンが新皮質の階層を上下する。奇妙に聞こえるかもしれないが、自分自身の行動が関与するとき、予測は感覚に先立つだけでなく、感覚そのものを決定する。つまり、シーケンスのつぎのパターンに移ろうと考えることで、つぎに経験するべき感覚が予測される。そして、この予測が展開されてつくられる運動の命令は、もとの予測を満たすための行動にほかならない。考えること、予測すること、行動することは、すべて同じシーケンスを展開したものの一部として、新皮質の階層をくだっていく。》


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同書で定義した知能が、生物の進化としてどのように現れたのか、という問いには、次のように答えている。

まず、生物の行動そのものは爬虫類の段階ですでに高いレベルに達したという。《たとえば、ワニは人間と同じような高度な感覚を備え、泳ぐ、走る、隠れる、獲物を襲う、待ち伏せる、日光浴をする、巣をつくる、交尾する、といった複雑な行動がとれる。》

こうした行動自体は旧脳によって実現されており、哺乳類にもそのまま受け継がれた。しかし、哺乳類の段階で脳の新皮質が初めて発達した。それは、感覚が旧脳だけでなく新皮質にも入力されることを意味する。その結果、哺乳類だけは「感覚や行動を記憶として蓄えること」ができるようになった。

《…感覚の情報がとおる旧脳の経路に、記憶システム、すなわち新皮質が付加されて、未来を予測できるようになった。》
《まず、旧脳は依然として爬虫類と同じ機能を果たしたまま、同時に感覚のパターンが新皮質に入力されはじめる。すると、感覚の情報が記憶として蓄えられ、感覚の実際の入力と記憶との比較によって、現在の状況を認識し、将来に受けとるはずの感覚を予測できるようになる。新皮質はさらに、感覚だけでなく、同じ状況で旧脳がとった行動も記憶する。感覚と行動の差を考える必要はない。なぜなら、新皮質にとっては、どちらも単なるパターンだからだ。そうなると、将来を見とおすだけでなく、その将来をどのような行動がもたらしたかまで思い出すことができる。こうして、動物は記憶と予測を使うことによって、既存の旧脳による行動をより賢く利用できるようになるというわけだ。》

ただし、繰り返すが、行動自体は爬虫類と何も変わっていない。《新皮質は感覚のパターンを予測し、将来を見せるが、行動の選択肢はほとんど変わらない。走り抜けたり、よじのぼったり、探しまわったりする能力は、いまだにトカゲと似たり寄ったりなのだ。》

人間の知能だけが哺乳類のなかで群を抜いているのは言うまでもない。その理由についてはこう述べる。

《人間の行動の飛躍を解明する鍵は、新皮質の領域と旧脳の組織とのつながり方にある。簡単にいえば、人間の脳の神経回路は独特なのだ。》
《人間がきわめて複雑な行動をとれるのは、運動野が独自に全身の筋肉と多くのつながりを持っているからだ。》

人間以外の動物は、感覚や行動を記憶するようになったとはいえ、筋肉の動きである行動そのものは旧脳の作用に大きく依存している。しかし人間だけは、行動そのものも、旧脳よりむしろ新皮質(運動野)が大きくコントロールしている。そのような神経回路に変化したのだと言う。だから、ネズミは運動野に損傷を受けても行動に顕著な障害は現れないだろうと予測される。しかし人間は違っている。

《だが、人間が運動野に損傷を受けると、身体は麻痺してしまう。新皮質が行動を支配し、高度な役割を果たしていることは、人間だけの特徴だ。だから、ほかの動物と違い、複雑な言語や道具を操れる。》


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永井均のいう〈私〉についても考察がある。これはそのまま引用しておく。

《子供のころ、「わたし」がほかの国で、ほかの子供の身体に生まれていたら、いったいどうなっていただろうかと、あれこれ考えるのが好きだった。なんとなく、身体から独立した「わたし」がいるように思っていた。心と身体が別物であるという感覚は、一般的にも珍しいものではなく、新皮質の働きからすれば当然といえる。新皮質は階層的な記憶の中に現実世界のモデルを構築する。このモデルが独自に活動をはじめると、思索が起こる。記憶が呼び覚まされて予測を生み、それが感覚の入力のように働いて、新たな記憶を呼び覚ます。もちろん、そもそもモデルがつくられたのは、感覚をとおして現実世界を体験したからだ。だが、計画をたてたり思案をめぐらしたりするときに使うのは、新皮質のモデルであって、現実世界そのものではない。》

《新皮質にとって、身体は外の世界の一部にすぎない。脳がしんとした暗い箱に入っていることを思い出そう。世界のことを知る手段は、感覚神経の軸索を流れてくるパターンだけだ。パターン処理装置としての脳にとって、身体とそれ以外の世界はまったく変わらない。身体の末端とその先の世界の開始点は連続している。》

これに続く以下がまた恐ろしく重要に思われる。

《ところが、脳の内部には感覚がないので、新皮質は脳そのもののモデルをつくることができない。そのため、思考が身体から独立していて、心や魂が別個に存在するように感じてしまう。新皮質は身体のモデルは構築できるが、脳自身のモデルは構築できない。脳の中に位置する思考は、身体からもその先の世界からも、感覚として切り離されている。》


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さて。

《この本が提示するもっとも重要な概念の一つは、新皮質の階層構造によって、現実世界の階層構造が記憶できることにある。森羅万象の入れ子構造は、新皮質の入れ子構造に反映される。》

私が最大限に興奮させられたのは、このあたりだ。

《人間が経験するシーケンスは、現実世界の普遍的な構造を反映している。世界の一部とかかわっていく順序は、世界の構造によって決まっている。たとえば、飛行機に乗るときは最後に搭乗橋をわたるのであり、チケット売り場からいきなり乗り込んだりはしない。経験するシーケンスは世界の実際の構造そのものであり、新皮質はそれを記憶しようとする。》

《この本のなかで新皮質とその働きについて述べてきたことには、きわめて基本的な前提が一つある。それは、現実世界に構造があるからこそ、予測が可能になることだ。森羅万象にはパターンがある。たとえば、顔には目があり、目には瞳孔がある。火は熱く、物体は重力で落ちる。ドアは開いたり閉じたりする。世界はでたらめではないし、均質でもない。そこに構造があるから、記憶も予測も行動も意味を持つ。人間もカタツムリも、単細胞生物も樹木も、あらゆる生物は繁殖の目的で現実世界の構造を利用する。》

「自然はこうなっていて、時間と空間がこうあって、私はこうなっていて…」というふうに我々が世界像を作っていくとき、そこには超えられないクセや宿命みたいなものがあるようだと、ときどき考える。上にある「シーケンス性」や「階層性」を如実に実感すると、なおさらそこに思いが到らざるをえなかった。

現実世界のすべてを、脳はまったく均質なニューロンの信号としてのみ写し取っていく。このこと自体、たしかに椅子から転げ落ちていいほどの驚きを誘う。それだけでなく、その写し取る形というものが、いやでもシーケンスになってしまうらしい、階層をもたざるをえないらしい、というところがまた、じつに面白いではないか! シーケンスも階層もなくもっと一挙に世界を把握してしまうような生命体が、この宇宙のどこかに存在していないともかぎらないが、そんな知能は我々にはきっと想像すらできない。それは同時に、コンピュータという知能には人間という知能がどんなかんじなのかが想像できないことを意味するのかもしれない。まったくエキサイティングな話だ。

さらに考えは巡って。とにかく我々は現実世界をとにかくシーケンスとして階層として見る。そのシーケンス性や階層性は、我々の知能もしくは世界の構造と本源的に切り離せないらしい。しかしそれならば、そのシーケンスや階層という足枷がはめられているのは、いったい我々の知能のほうなのか、世界そのもののほうなのか…。そこが分からなくなりそうなところが、超絶的に面白い。カントの『純粋理性批判』とか真面目に読んでみようかと思い始めるのであった。(だいたいカントはいくら難解であってもたかだか人間の知能なのだからどうにかなるに違いない…といいが)

ちなみに、「脳のなかに現実世界のモデルがあるというなら、頭の外の世界は本当に存在するのか?」という問いに、ホーキンスは次のように答えている。

《もちろん存在する。》
《だが、現実世界をどう理解し、それにどう対処していくかは、脳内のモデルからつくられた予測にもとづいている。いかなる時点においても、人間が直接に感じているのは、世界のごく一部にすぎない。》
《人間の認識の大部分は感覚から得られるのではなく、脳に記憶されたモデルからつくられる。》
《したがって、「現実とは何?」という質問の大部分は、新皮質のモデルには現実世界の本質がどれくらい正確に反映されるのかという問題に帰着する。》
 

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上に並ぶほどの深みをのぞいた気にさせられたことが、実はもう一つある。やはりというべきかもしれないが、言語についてだ。

記憶にもとづく予測。シーケンス性、入れ子構造。情報が階層構造になって相互作用しつつ抽象化と具体化を自在に遂げていく。人間の知能の原理として挙げられたこれらの特徴は、ことごとく言語の特徴を示しているようにも思えるのだ。

いやもう、生物の知能がホーキングが説くような本質と構造であるならば、知能がやがて言語を生みだすのは、もはや必然としか思えない。知能という機構はまさに言語という機構そのものだとすら感じられる。

…というと、いくらなんでも、大げさだろうか。まあここは今後ゆっくり考えてみたいものだ。

ホーキンスは言語についてはあまり多くは語っていない。しかし、とても示唆的な一節を最後に引用しておこう。

《人間の知能をほかの哺乳類から区別する第二の違いは、言語の存在だ。多くの専門書には、言語に独特と考えられている特徴や、その発達の歴史が書かれている。しかし、記憶による予測の枠組みは、特別な理論や専用の解釈を持ち出さなくても、言語にぴったりとはまる。》


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というわけで、この本が考えさせたこと、気づかせたことは、あまりに甚大だった。

主張が明快であるだけでなく、その展開のなかに多数の重要な観点が絡みあう。そして絡みあうことで、「記憶と予測」という主張は、さらに強い説得力と深い意味を伴ってくる。

あるいはこう言っていいかもしれない。「記憶と予測」とは知能を考えるための決定的な原理であり、知能をめぐっていかに複雑で多様な現象が現れようと、それらはこの原理に従えばことごとく説明されてしまうのだと。これは、進化という複雑で多様な現象が「突然変異と自然淘汰」の原理さえ踏まえればいずれも説明できる、という事態に似ているのかもしれない。「記憶と予測」という枠組みは、人間の知能や認識を見きわめようという場合に、それくらい強力に思えるのだ。


あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜の 感想文