東京永久観光

【2019 輪廻転生】

人生いろいろ、煙草もいろいろ


ニコチン中毒を是とする人に煙草をやめろというのは、阪神ファンに道頓堀に飛び込むなというようなものか。そこには、命がいくら縮もうと「これをためらったら生きる甲斐がない」という岸和田のだんじりにも似た美学があるのだろうから。

しかし、「禁煙ファシズム」という異論が巻き起こるなかで、「禁煙ファシズム」とはまったく別次元ながらまったく同じくらい深刻である「受動喫煙」という問題が、いささか軽んじられてしまうとしたら横暴ではないか。

他人の吐いた煙が私に向ってくるのは、構図としては、アメリカ軍や武装勢力の投げた爆弾が私に向ってくるのと似ている。

「オイラが煙草を吸うのはオイラの勝手だろ」は「オイラが鉄砲を撃つのはオイラの勝手だろ」みたいなことであって、他人が文句を言う筋合いではない。ただし「オイラの撃った弾がおまえに当たるのは、オイラの勝手だろ」という人を、「ああ、かまいませんよ、どうぞ」と心の底から笑って受け入れることは、私にはできない。その人の「戦争の自由」や「喫煙の自由」にどれほど高邁な思想が横たわっていようとも、だ。

これは、だいぶ前に『ユリイカ・煙草異論』(http://www.seidosha.co.jp/eureka/200310/)をパラパラ読んで思ったこと。『禁煙ファシズムと闘う』(asin:4584120994)は読んでいない。参照:http://d.hatena.ne.jp/ykurihara/20050929

で、この『ユリイカ・煙草異論』を読んでじつに不思議だったのは、これらの書き手には「米軍等のイラク空爆はいかなる理由があろうとも絶対に許さない」と語りそうな人がけっこう多いのではないか(推測)ということだった。その語りにおいては、戦争こそファシズムであって、無条件の反戦原理主義を「ファシズム」とは呼ばないだろう。だから、これらの書き手が、受動喫煙への無条件の嫌悪まで「禁煙ファシズム」と一緒くたにしてしまうほど愚かではないことを、私は信じる。