東京永久観光

【2019 輪廻転生】

腐敗も発酵もしない(追記あり)


マックを新しくした。やっとのことでOS10ユーザーの仲間入り。しかし予想どおりOS9までとはがらり変わって、システムのブラックボックス化が進んでしまった。それに伴って、どうもデータがシステムやアプリケーションの指定どおりに保管されてしまう傾向がある。そのほうが便利なのだろうが、これまでデータはデータとして生のまま自在に扱えたのに比べると、ちょっと気持ちがよくない。

しかしふと思った。ソフトとデータが絡み合って完全には分離できない状況とは、我々の脳に似ているのかも、と。たとえば、頭の中の思考のうちどこまでが知能でどこまでが記憶かと問われても、互いに依存し互いに変容させあっているようで、きれいには分けられない気がする。

ちなみに、私が初めてパソコン(Mac)を買ったのは1995年。つまり10周年である(おめでとう!)。パソコンはこれで5台目になったが、代々のマシンをタマ、ノラ、チェシャー、ピートと呼んできたから、今度のはヘンリー四世とでも名付けるか。…というのはすべて冗談なのでご安心を。それにしても1Gを易々と超えたクロック数には驚くばかりだ。JRや佐川急便なら速さにも限度があるだろうし、もうこれくらいで十分とも思えるのだが、パソコンはまだまだ限界がなさそうで、この先どこまでいくのやら。

ハードディスクの容量も買い替えごとに倍増してきた(それ以上か)。こんなことを続けていたら地球環境は一体どうなるんだ、と不安になるが、べつに地球環境は関係ないか。こんなにたくさんのディスクをどう埋めればいいんだとも毎度思うのだが、結局それに合わせて満杯になるから不思議だ。一つには、システム自体の容量がバカにならない(というか利口になった?)というのもある。これがまたおかしなことに、現代人の脳を思わせる。実際に思考する分量に比して、その思考のために備えなければならない知能や知識の分量がやけに多く感じられるということだ。「スキルとか磨くのもいいけど、仕事もしろよ、おまえ」というのにも似ているか。

ハードディスクの容量が大きくなったのは、画像さらには音楽のデータをパソコンに入れるのが一般的になったこともあるだろう。私もOS10にしても、iTunesの真価そしてiPodiTunesミュージックストアの威力を、ようやく実感している。こうなると、新しいマックはただただiTunesのための母艦になりつつあるようにも見える。

さて、ハードディスクほどではないが、10年パソコンを使っていると、自分が作成したり保存したりしたデータもかなり膨れあがってくる。この先も死ぬまでこの調子でディスクにデータを放り込んでいくことになるのだろうか。テキストだけでなく写真や音楽さらにこの先は音声や映像も平気で加わるのだろう。しかし明らかに深刻な問題がある。集積していくデータは、直感的に一望したり検索したりすることが現時点ですでに不可能になりつつある、ということだ。これは誰のパソコンにおいても明らかではないだろうか。

パソコンに保管したデータは、いくら時間がたっても薄れたり消えたりしないところは、脳と違って優れているかもしれない。しかしその代わりパソコンでは、データが浸透しあったり勝手に連結したりすることはありえない。あるいは、データの全体像や分析像というものを、常に想起したり提示したりはしてくれない。(MacOS10の、おせっかいというのが、そういうことに対応してくれるという方向なら、いいのだが…。よくわからない)

そういう状況にあって、せっかく自分で考えたり書いたりしたことを忘れないようにというのが、ホームページやブログを作成する目的の一つでもあった。ソーシャルブックマークも、外部の情報を知って自らの記録としても残すという、似たような用途で使っている。しかし恐ろしいことに、いずれもいつか読み返そういつか整理しようと思いつつ、そういう機会はめったにない。ブログもブックマークもたまる一方だ。自分のパソコンディスクにせっせと保存している日々の感想とか他人の悪…褒め言葉とかもまったく同様だ。

デジタルデータは、紙やテープと違って場所をとらないから、無条件で残してしまうところがある。しかし繰りかえすけれど、放り込んでいったん忘れたデータは、ユーザー自らが再び開いて再び目にしないかぎり、生きたまま死んでいるようなものだ。パソコンが勝手に再利用はしてくれない。

このまま増えれば増えるほどますます手がつけられなくなるのなら、これからは、自分が書き散らかしたものなど、忘れると同時にディスクにも保存なんかしないでおこう、ブックマークもよほどのことがないかぎり追加しないでおこう、mixiの友人もアンテナの数もなるべく増やすまい、できるなら少しずつ捨てよう、と、そんな決意が必要になるのかもしれない。

ブログを放置しておくと、そのうちに腐ってひどいことになったり、熟成していい香りになったりすると面白いが、それは何かの喩えとしてしかありえない。


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下のコメントを受けて付け加えます。

検索ソフトは、内容検索(その語が含まれるファイルをすべて探してくれる)が最低条件だと思う。マックは、ファイル名の検索だけでなく内容検索のシステムを、OS9ですでに備えていた。でも実際は使いづらく、私は外部ソフトを使っていた。OS10の内容検索はもう少し楽に使えそうだ。

もちろん、欲をいえば、「世界観が揺らぐような体験の記録」とか「じわじわ悲しみが広がった映画」といった本当の意味での内容検索ができたらいい。人間の脳はそれをやっているみたいなのだから。

で実をいうと、そのMacOS10の内容検索は、ほんのわずかそれに近いことを目指しているようでもある(まだほとんど使っていないのではっきりしたことは言えないが)。たとえばその「世界観が揺らぐような体験の記録」という語でためしに検索してみると、パソコンディスク内のすべての文書から130ファイルほどをかき集め、「関連」の度合いの順に並べてくれた。といっても「世界観が揺らぐような体験の記録」という語が含まれるファイルは存在しない。たぶん「世界観」+「揺らぐ」+「体験」などのand検索をするのだろうが、単純にそれだけではないのかもしれない(まだよく分からない)。ちなみに上位に上がったファイルには「ウィトゲン鬼界メモ」「カンバセーションピース・メモ」(いずれも読書メモ)などがあり、それなりにそれらしく思えるのが不思議。

Googleのデスクトップ検索もきっと賢いのだろうが、今のところウインドウズだけなので、羨ましいとしか言えない。

検索との関連でいうと、iTunesにおける音楽ファイルの徹底管理ぶり、ソートやブラウズの自在さには、唖然としてしまう。これぞインテリジェントな検索機能が実現していると言えるのかもしれない。テキストファイルもこれくらい多様にして即座の呼び出しができればいいのだが、音楽ファイルはiTunesという強力なアプリケーションと一体になっており、しかも最初からタグがたくさんついているから、それが可能なのだろう(ここには、上に書いた「ソフトとデータの不可分性」が関係してくると思う)、したがってテキストファイルも、少なくとも作成時にタグをいろいろいちいち付けておくくらいはしておかないとダメだろう。それが現状だろう。脳の記憶では、タグ付けがどういうわけか自動的にうまいことされているようで、羨ましいとしか言えない。

ただ、iTunesの音楽ファイル管理も含めて、パソコンの検索機能がこの先ぐっと優秀になっていくとしても、それはなんというか、自らの記憶を自らが意識して思い出し引っぱり出すというよりも、他人の頭をCTでサーチしているという感覚だ。パソコンがまるで自分の思考や記憶のようになるというのは、そういうこととは違うように思うのだ。

…ところがだ。ここで、前野隆司氏の受動意識仮説(http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20050923)を拡張させて考えるなら、自分のパソコン内の思考ファイルや記憶ファイルを、検索ソフトという小人たちが手を伸ばしてかきまわし整理していくのを、モニターの前で座って見ているだけで「これはオレが成し遂げた仕事だ」と錯覚できるのが「私」という意識である、ということになる。我々の思考や記憶の感覚も変容するのだろうか。あるいは、もうしているのだろうか。まあ「私」はそれほど軽薄・軽率でもないだろうが、それほど頑固・慎重でもなさそうだ。