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【2019 輪廻転生】

バカ社長みたいな「私」

前野隆司著『脳はなぜ「心」を作ったのかー「私」の謎を解く受動意識仮説
脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説

たとえば「直角三角形があります。直角を挟む2辺の長さは3cmと4cmです。では斜辺の長さは?」という問いを出されれば、いろいろ考えたり思い出したり計算したりして「5cm」と答える。そのとき我々は、「私」が自主的に意図して考えたというふうに感じている。ところが実はそうではない。本当は、ニューロンという小人の群れが勝手にああでもないこうでもないと情報をやりとりした結果としてその答えに到った、とみるべきだ。「私」は常にその小人たちの動きを端から眺めているだけ。小人たちの統率や指揮すらしていない。それでも、小人たちの仕事を「私の仕事」と錯覚することによって、「私」という自己意識は生じてくる。

同書が示す「受動意識仮説」とは、だいたいこんなかんじ(いくらか私なりの表現に換えた)。この見方は、意識がどういう構造になっているかを大きく見誤らないために非常に有益のようだし、きっと事実にも近いのだろう。著者はこの見方こそ「地動説」だという。したがって、脳のなかに「私」という明瞭な存在があってニューロンのすべてをコントロールしているという見方は、「天動説」ということになる。他の研究者が「天動説」なのかどうかは知らないけれど、ともあれこのコペルニクス的転回たる発想をさっくりイメージさせてくれるところに、この本の第一の貴重さがあると思う。

(なお、「私」が指を動かそうと意図するより先に指自体は動こうとする、という有名なリベットの実験結果が、受動意識仮説の根拠としても紹介される。)

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もう一点、すこぶる面白いと思ったこと。それは、「私」という意識の出現はエピソード記憶の生成に伴ってではないかという指摘。人間は、「冷蔵庫に玉子がある」「玉子は食べられる」「食べることは身体に大事」といった一般的な記憶だけでなく、「けさ冷蔵庫の玉子を食べたらうまかった」といったたぐいの出来事としての記憶を備えており、それによって高度な認知や活動は実現すると考えられる。そして、このエピソード記憶のためには「私」という括りがどうしても必要になると、著者はみるのだ。

《…エピソードを記憶するためには、その前に、エピソードを個人的に体験しなければならない。そして、「無意識」の小びとたちの多様な処理を一つにまとめて個人的な体験に変換するために必要十分なものが、「意識」なのだ。「意識」は、エピソード記憶するためにこそ存在しているのだ(*この一文すべて傍点つき)。「私」は、エピソードを記憶することの必然性から、進化的に生じたのだ。》

この考察はさらに、他の動物が「私」という意識を持つかどうかを、エピソード記憶を備えているかどうかで判断してみる、といった展開につながっていく。同時に、昆虫には一般的な意味記憶すらなさそうだから反射だけの意識状態なのではないか、といった展開にもなる。しかもしかも、「私」という意識を脳における受動的な位置で捉えるかぎり、昆虫から人間への進化のなかで「私」という機能が浮上してくることに、さしたる不連続性はないのだ、とも述べる。

生物進化の観点から意識を捉える方法は、一般に重視されているようだ。それに加えて同書は、記憶という観点をさらなる重点として絡ませる。しかもその方向で他の動物や昆虫の意識というものを具体的に比較・想像してみせるところが、じつに刺激的だった。

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さて、ニューロンという小人の群れこそが脳の働きの実体であり、「私」という意識はただそれを眺めつついわば仮想的な主体として浮上するだけ、といった立場が強調されたわけだが、同書はその立場から、意識をめぐってこれまで難問とされてきたいくつかの謎も、あっさり解消させようとする。

謎は3つ挙げられ、その1つがクオリアだ。しかし、クオリアの謎というのが、「赤という色がこういう色なのは何故か」とか「この色そのものを、物質の性質や因果のどこに当てはまるのか」といったものであるなら、それは同書が解消したことには含まれないないように思われた。とはいうものの、同書がクオリアを解消したというロジックは非常にあっさりしたもので、とにかくそれくらい大ナタを振るってみてこそ、クオリアをめぐる思案全体がやっと少し先に進めるのではないか、とも思った。

もう1つは〈私〉の謎。つまり永井均のいう〈私〉。

《〈私〉とは、記憶とも「知」「情」「意」の多様さとも関係なく、ただ単に、ピュアに、「〈私〉というクオリアは〈私〉である」、という決まりが脳の中に定義された結果作り出されたクオリアに過ぎないと考えられる。なんだかあっけない帰結だが、そう考えるしかない。
 主体的であるように思える「知情意」のクオリアが錯覚だったように、リアルに存在するように思える〈私〉のクオリアも、錯覚の決まりがあるから作り出されたに過ぎない。何も個性はない。人間の身体一つに、〈私〉は一つ。進化とともに「意識」というものができた以上、人間の身体一つに、一つの〈私〉というものの決まりが定義されて。それだけの話なのだ。
 つまり、〈私〉はなぜ、前野隆司に宿ったのだろう、なぜ隣の住人の〈私〉ではなかったんだろう、という問いは、その問い自体が間違っていたのだ。》

実は、ここだけはどうもうまく理解できなかった。〈私〉はなぜ隣の住人の〈私〉ではなかったんだろうという問いに対して、答があるかどうかはともかく、これで答が出たようには感じない。また、ここに示された解消法は意識の受動仮説に拠らなくても可能にも思える。しかしながら著者は、この解消によって次のような晴れ晴れした気持ちに到る。

《…私たちはもう、死を恐れる必要はない。
 なにしろ、私たちが失うことを恐れていた〈私〉は、実にちっぽけでささいな存在に過ぎないのだ。しかも、それと同じものが地球上に星の数ほどもある。(…)その中のたったひとつであるあなたの〈私〉が失われることをどうして恐れる必要があろうか。》

《…あなたの〈私〉がなくなったって、世界中にあふれているたくさんの〈私〉は存続していく、という意味において、〈私〉は永遠だ。》

このような気持ちになる理由もまったく分からないから、やはり私は上の解消法がよく分かっていないのだろう。この〈私〉がなくなったら、もう世界のどこにも〈私〉はないに決まっているではないか。〈私〉は世界にあふれているよと言われたって、それはこの〈私〉には何の救いにもならない。私はそう思うのだが…。

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なお、ニューロンの小人の群れが勝手にあれこれやっているというのは、ニューロンのつながり方や働き方のモデルとして注目されている「ニューラルネットワークコネクショニズム)」というものを念頭に置いている。同書は最後にその解説もしている。ともあれ、簡潔明瞭面白の一冊です。


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もう一つ大事だと思った点を追加。(9.28)

「私」という意識の受動性を説いていく前段として、同書は、そもそも自分の身体における自分の領域についても、脳における私の領域と同じく、虚を突くような問いかけをする。胃の中に入ったばかりの食べ物は自分か、腸内の大腸菌は自分かと。あるいは剣玉をするとき、脳が剣玉を動かすために見立てる身体モデルでは手と剣玉が区別なく扱われるだろうと。

《「自分」「私」というのは実は思いのほかあいまいなものなのに、人間は、それをなんとなく確固としたものであるかのように錯覚し信じるようにできている、といえよう。》

一般に、なんらかの対象(ここでは意識や生命という現象)を見極めるために、その対象を位置づける次元をためしに少し変えてみるというのは、非常に重要で有効な方法なのだろうと、最近しばしば感じるところだ。

ぐっと身近な例をあげるならーー。「彼は怒りっぽい」とか「あいつは怠け者だ」とか言うが「怒りっぽい」のも「怠け者」なのも、その人固有の領域に閉ざされた性質なのではなくて、その人と他の誰か、他の何かとの「関係」に現れる性質なのだ、と捉えることができる。「怒りっぽい」は、その人とたとえばAさんとの間にあるいはBさんとの間にそれぞれ現れる現象であるということ。その人とCさんとの間には「怒りっぽい」は現れないかもしれない。「いやあの人は常に怒りっぽいよ」と言うときは、現実のいずれの「関係」においても怒りっぽいというだけのことかもしれない。

いわゆる心と呼ばれるものも、自分の内部作用というより他人との相互作用なのだと捉えたほうが、明らかに見通しがよくなる。このことを私は、月本洋という人工知能研究者が書いた『ロボットのこころ』(ASIN:4627827814)を読んで、今さらながら強く感じた。ボクシングにおける身体の動きを理解するのに一方だけを見ていては何をしているのか分からない。心というのはむしろ社会という外部の制約をうけて初めて形成される。言葉も似たようなところがある。…などなど実にさまざまなことに気づかされる一冊だった。(なお『ロボットのこころ』には、これとは別に明快な本筋があるが、それはまたいずれ)

『脳はなぜ「心」を作ったのか』も、自己と他者は脳にとって同じようなものだという言い方を(ごく簡単だが)している。

《自己と他者、中と外、という分け方は生命現象としてはそもそもナンセンスなのだ。自己も他者も、知情意に対して流れ込んできて流れさっていく対象であるという点では同じようなものなのだということができる。》