東京永久観光

【2019 輪廻転生】

ウクライナ96年、奇妙な日々


《それに、今の世の中、闘うっていったら物質的な理想を求めてに決まってる。無鉄砲な理想主義者は、階級ごと死滅したんだ。残ったのは、無鉄砲な現実主義者ばかり…》


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ペンギンの憂鬱』という海外小説を少し前に読んだ。ウクライナアンドレイ・クルコフという作家の長編。世界各国で翻訳され好意的に迎えられたそうだ。日本では昨年秋に新潮クレスト・ブッスクから出た。やはりひっそりだが強烈な支持がじわり広がっているもよう。

それにしても、我々はウクライナについてどれほどのことを想像できるだろう。位置は? 首都は? 私はほんの少しわかる。なぜなら一度旅行したことがある。なかなか奇妙な日々だったので忘れがたい。それがちょうど『ペンギンの憂鬱』が描く1996年の首都キエフなのだ(刊行も96年)。あのとき私を包んでいた見知らぬ都市の見知らぬ世情とは、まあこういうものだったのかなと、そんなふうな興味深い読書に恵まれた。

だから、ここで『ペンギンの憂鬱』を紹介するのではない。おかしな人物(および動物)ばかりによるおかしなストーリーがとても心地よかった、くらいは伝えておきたいが、そういうことも説明されるよりただ読むにかぎる。ただただ1996年のキエフ滞在について、私的に猛烈に回想したいだけ。


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その旅行は2人連れ。大阪からフェリーで上海入りし杭州や北京をブラブラしたあと、列車でモンゴルに移動しウランバートルと草原に滞在した。中国からモンゴルに進んでしまうと、あとは中国へ戻るのでないかぎり陸路で行けるのはロシアしかない、というわけでさらに列車で北上。路線はそのままシベリア横断鉄道となってモスクワまでつごう4泊5日、これまた思い出深い大移動だった(この話はまたいずれ)。

さてモスクワから先はどうするか。近隣の国でビザなしかつ陸路で行けるところはほとんどない。飛行機で西ヨーロッパに抜ける手はあるが、そのチケット代や西ヨーロッパでの物価が高い。思案していればロシアのビザの期限は迫る。それでまあ地図を眺めつつ、ウクライナを経由してトルコに行こうと結論して、またもや列車で、まったく何も知らないウクライナの首都キエフに向かった。ウクライナといえば86年のチェルノブイリ原発事故を思い出してもよさそうなものだったが、そんなことも今ここと結びつけて考えることはなかった。結局ウクライナのビザに手間と金が理不尽にかかって、ただやれやれという気分だった。

ところがウクライナに入ってからのほうはもっと大変だったのだ。『地球の歩き方』には安宿情報が皆無。キエフ中心部の広場で探せばなんとかなるかと、重い荷物を担いで歩いて行ったものの、やはり誰に聞いてもラチがあかない。まあ数千円払えばちゃんとしたホテルに泊まれるのだから絶望することはないのだが、ここまで安くあげてきてそういう金銭感覚になっているから、1泊数千円というのは途方もないことに思える。それと、キエフはモスクワと同じく英語を話す人があまりいないのも苦労の種だった。

だから、その広場でなぜかインド系の青年たちを見かけたとき、藁にもすがる気持ちだった。どうやら彼らはある宗教グループのメンバーらしく「アシュラムみたいなところでよければ泊まれるけど」と言ってくれ、「それでいいです、ぜひぜひ」ということで連れていってもらうことになった。

そこは、地下鉄とバスを乗り継いで、緑もやや目立つようになった郊外にあった。古びて中が暗いような大きなアパート群があり、その一角にそのグループは共同生活し瞑想などを実践しているのだった。メンバーはみなウクライナの人たちのようだが、何人かが英語でやりとりしてくれた。グループの本部はインドにあるらしく、青年たちはたぶんそこから一時的に来ていたのだろう。

ここで得も言われぬ数日間を送った。若くもなく年とってもいない男女それぞれ3〜4人くらいずつが通ってきたり泊まっていたりする。なかには夫婦もいた。アパートの周囲にはあまり手入れしていない森や池があって、メンバーと一緒にのんびり歩いて日中を過ごすこともあった。芋を焼いたりもした。食事はメンバーが交代で作るのだが、なぜか分からないがその回数がやけに多く、いつもテーブルの隅でじっとしていた私たちも同様にふるまわれた。どれも家庭料理の趣でおいしく量も多かった。ちなみに朝は広い部屋に集合して瞑想することから始まる。興味と義理から私たちも参加したりさぼったりした。

とはいえ、次にトルコへ移動するための算段もあるし、観光もしなけりゃ旅人の沽券にもかかわるとあって、いちいちまたバスと地下鉄を乗り継いでキエフ中心部にも出かけた。そんなある日、最初に宿を探した広場でのこと。主婦とおぼしき中年女性がベンチに座って一人なにか盛んに訴えかけている。下手くそな英語なので、私たちに向けてなのだ。要するに、いまウクライナの経済は目茶目茶でとてもまともに暮らしてはいけない、どうにかしてください、といった内容だったと思う。当時ウクライナは、ソ連がなくなって急場しのぎにこしらえたとおぼしきクーポンという名の通貨だったが、恐ろしいインフレに見舞われているらしく、コーヒー1杯が何百万クーポンというぐあいで、もはやゼロを6つほど省いて表示するのが普通だったりした。

しかしキエフはチャーミングな町でもあった。なにしろ歴史が古い。世界史で習ったように、キエフ公国というのは最古のロシア系国家とされている。いかにもロシア正教っぽく飾り立てた国宝級の寺院がいくつも観光スポットになっている。ある建造物(再建か)を見に行ったら、なんと「かつてチンンギスハンがここまで攻めてきた」と書かれていて意表をつかれたこともあった。チンギスハンの軍勢は、あのモンゴルの草原から、私たちが4泊5日鉄道で疾走しさらにモスクワから1泊の列車でやってきたこのキエフまで、はるばる馬にまたがって攻め込んできたというわけだ。攻められたということでいうと、キエフ第2次大戦の戦場ともなり、その立派な記念館も立っていた。ドイツの悪とソ連の正義を徹底して宣伝する大規模な展示はかなり見ごたえがあった。森林いっぱいの小高い山も中心部にあった。それと『ペンギンの憂鬱』にも出てくるドニエプル川。その辺りもよく歩いた。

あと、宿を探していたとき、言葉は通じないながらも親身になってくれた娘さんが一人いて、私たちが日本から来たとわかると、へ〜えと目を丸くしていたのをなんだかよく覚えている。伝え聞く日本の豊かさ、しかしその実態のイメージしがたさ、そして目の前にふいに出てきたそのヘンな日本人というのをどう受けとめていいかよく分からない、そんな憧憬と困惑の顔だったのだろうと思う。それは、そのとき私たちもまた初めて出会ったキエフの町やキエフの人々に旅行者として抱いた憧憬や困惑とたぶん同質のものだったろう。


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そんなわけで、ウクライナキエフの話となれば、私にはなかなか余所事でもないのである。よく分からない町でよく分からない日々を過ごした短い強烈な記憶。『ペンギンの憂鬱』の、謎めいて背景がなかなか見えてこなくて、でも叙情的で静かで活気がなく、でも腰が落ち着かなくてじわじわエキサイティングな物語は、私のその思い出とうまく馴染んで、じつにおもしろい読書時間を与えてくれた。

そういえば、ウクライナは最近ニュースの話題にもなった。現在の大統領が先の選挙にからんで毒を盛られたとかで、その顔貌の激変ぶりが恐ろしい印象で我々の目に届けられた。ウクライナって、何がいったいどうなっているんだろう。『ペンギンの憂鬱』のウクライナも、全般的にはのんびりムードだが、あの大統領の顔がまさに見せつけた底知れぬ陰謀はしっかり渦巻いている。

それと同じように、あの瞑想グループについてもインド青年のことも実際は分からないことばかりなのだ。どんな背景の人たちだったのか。どんな世界観を抱いていたのか。みな親切だったが、居候の私たちを本当はどう思っていたのか。今となっては確かめる術もない。再びキエフを訪ねたとしても、地下鉄とバスを乗り継いであのアパートまで辿り着けるかどうか、自信がない。おまけに、きょう思い出して書き記したこと自体、すべて記憶違いのない事実であるかどうかとなると、おぼつかない。

ともあれ、本日の結論。
●いづくにもあれ、しばし旅だちたるこそ、目さむる心ちすれ。(徒然草
●懐かしいということは、ただもうそれだけで十分すぎる価値なのだ。


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冒頭に引いたのは、読書中わずかにメモしたうちの1つ。小説の本筋とはあまり関係ないが、私はこのあたりを読んでいて、あのキエフの広場で窮状を訴えかけてきた中年女性のことをちょっと思い出したのだ。

いつか日本も没落したら、あのときのウクライナそして『ペンギンの憂鬱』のウクライナみたいな社会になってしまうのだろうか。でもそれはそれでいいのではないか。そのときは、みんなそろって、こういうわけの分からない小説でも日がな綴りながら暮らせばいいのだ。わけの分からない株でも買いながら暮らしている今と、どっちもどっちだ。どう転んでも人生はそううまくいかない。

逆に、今後ウクライナの経済が今のアメリカや中国みたいなまっしぐらな方向へ華麗に転身したら。それを絶賛する人は大勢を占めるに決まっている。しかしそのときは、少なくとも『ペンギンの憂鬱』みたいな小説は生まれにくくなるかもしれないと、私は思う。

…そんなことを考えつつ読んでいたのは実は2カ月ばかりも前のこと。今となってはこの思いは、ウクライナというより、まっしぐらな方向転換をいよいよあからさまにしはじめた日本への憂いとして、はっきり焦点を結びつつある。

この思いと明瞭なつながりは示せないが、『ペンギンの憂鬱』には、ウクライナ経済への諦観を語った老人のこんな台詞もある。

《「ものが豊富にあった時代をご存じないんですな」
 老人の声には、残念そうな響きがあった。
「どの世紀にも、5年くらいは豊かな時期があるもので、その後は何もかもだめになるんだ……。今度豊かな五年がやってくるまで、あなたは生きてはいないでしょうし、私なんかなおさらだ…。でもまだ私は前の五年を知っているからいいが…。》

日本経済における20世紀の輝かしき5年間を探すとしたら、いつになるのだろう。


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『ペンギンの憂鬱』は、『モウビィ・ディック日和』のこの記事(http://d.hatena.ne.jp/ishmael/20050315)を読んだのと、ちょうど同じころ知りあいからも勧められたことで、読む気になった。感謝します。
ペンギンの憂鬱 (新潮クレスト・ブックス)