東京永久観光

【2019 輪廻転生】

議論に鉄砲はいらないが白旗もいらない


靖国神社は、戦争にまつわる犠牲を「悼む」場でもありえるのだろう。しかしそれ以上に、靖国神社は戦争にまつわる犠牲を「讚える」場にみえる。これがなにしろ最も気になる。次に、「御国のために殺されたこと」だけでなく「御国のために殺したこと」もドサクサまぎれに讚えていないか。似たようなものとも言えるが、これも相当気になる。そんなこんなで、小泉首相靖国参拝が私はべつに嬉しくない。

まったく同じ理由から、戦勝国が「御国のために殺されたこと」を「讚える」ことも「御国のために殺したこと」を「讚える」ことも、べつに嬉しくない。

とはいうものの、国家とは自国の戦死者を讚えずにはいられないものなのだろう。戦死者を讚えなければ、自らが行った戦争を否定することになってしまう。国民としても戦死者を讚えることは常識だと考える人は少なくないようだ。ただ、日本のあの戦争だけは100パーセント否定されたので、その戦死者も堂々と讚えることはできない。さて私としては、あらゆる戦争を侮蔑するのではない人と一緒に、日本のあの戦争だけを侮蔑することには、あまり気乗りしない。それは私が自国をひいき目に見ているせいもあろうから、冷静になりたいが、それでもなお、そのような侮蔑は公正さを欠いていると思うからだ。

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とりあえず、戦死者を讚えずに悼むことだけができるなら、それは意義を持つのだろう。そのような場所を別に創設するという案は、穏当なのだろう。しかしながら、その場所が靖国神社でなければ駄目だという人もいるのだろう。靖国に眠るつもりで戦死した戦友や肉親は、靖国でなければ弔えないと考える人がいても、その気持ちは理解できる。そこを汲む必要がまったくないとも思えない。

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「日本は戦争の加害国だ」という常識は私も持っている。では「誰が戦争の加害者なのか」というと、思い浮かぶ答は「当時の日本の支配層が加害者であり、加えて、戦地で人を殺した兵隊やそれを支えた(非国民でない)国民も加害者だ」というものだ。しかしこれだけで気持ちは収まらない。なぜなら、赤紙で戦争に行かされ空襲におびやかされ腹をすかせ、殺し殺されもした日本国民の多くは「戦争の被害者でもあった」と感じるからだ。

あの戦争のせいで、すなわち日本の侵略のせいで、侵略された地域の人々はひどい損害を被った。そして私の祖父母や両親はその日本の国民だった。しかし、私の祖父母や両親はあの戦争でなにか得をしただろうか。あまりしなかった。侵略された地域の人々が得をしなかったのと同じくらい、得などしなかった。どちらかといえば十分に損をした。私の祖父母や両親の実際の生涯をどう眺めてもそういう結論になる(だからといって私の祖父母や両親に戦争の責任がまったくないと言いたいのではない)。そうすると、私もあの戦争によって差し引き得をするよりは損をした側だと思ってもいい。こんなことは人目を憚って言うべきか(分からない)。…もちろんあの戦争で大いに得をした日本国民やその子孫はいるだろう。

侵略された地域に戦後生まれ育った人々は、被害者の子孫ということになる。彼ら自身が被害者ということにもなろう。一方、侵略した国に戦後生まれ育った国民は、加害者の子孫ということになる。しかし上にのべたとおり、その多くは戦争の被害者の子孫ということにもなる。私はそう考える。

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なかなか考えがまとまらないが、本日はここまで。

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始めに述べたことを、すこし別の題材でイメージするために、ちょっとリンク。映画『プレイベート・ライアン』の感想。
http://www.k2.dion.ne.jp/~yamasita/cinemaindex/fucinemaindex.html#anchor000140
この人はじつにコンスタントにたくさん映画を見ているようで、しかもどんどん長い感想をアップしている。

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ところで、ちょっと分からないのは、首相の靖国参拝を強く非難する人が、元軍人や遺族の参拝にはあまり関知しないようにみえること。そこまでいちいちやってられないのか。国と民では立場がまったく異なるということか。ひとえに外交や国益の問題だという自覚なのか。それにもまして、靖国が特別に微妙な存在で態度を決めかねるというのが実際のところか。