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【2019 輪廻転生】

映画のレッスン、映画のユリイカ(2007.4追記)


青山真治監督『ユリイカ』(EUREKA) ASIN:B00005V28H

文句なしの傑作。私たちには見慣れた土地や人々から、神々しいまでの光景が立ち上がってくる。このような志を貫く映画はあまりないと思う。生涯のベスト映画になるやも。(以下ネタばれあり)

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深い傷を負った者が再生するには、その固有の傷に応じた固有のレッスンがどうしても必要なのだろう。たとえばバスの運転手が、バスそのものによって自分の人生や精神を大きく狂わせてしまったとき、2年そしてそれ以上も苦しみ迷いぬいたあと、ふと「別のバス」をあえて運転しようと思い立ち、かつて同じバスで死にかけ生きそこなってもいた兄妹たちを伴って、もう一度バスに乗り込み旅に出かける。そのようなレッスン。あるいは、ポラドイド写真を撮ってみる。噴火口を覗きこんでみる。自転車でぐるぐる回ってみる。あるいは言葉が失われていたら、互いを囲み隔てる壁を小さくノックしあう――奇跡のように舞い降りるこの場面は忘れがたい。かすかに気づいたことがあったら、いくら奇妙でも、他人である兄妹の家にいきなり上がり込むようなことでも、やってみて、なにかが回復してくるのを待つ。うまくいけばきっと、バスの運転を初めて教わるときのエンジン音やタイヤの動きにも似た、驚きの感触が満ちてくる。

なにかがずっと見えなくてずっと辛いようなときは、それを超えていける手続きの存在を信じ、手さぐりし準備し辿ってみることなのだ。どれだけ長くかかるのか分からない。でもかかるだけの日々を費やすしかないではないか。(この映画も?)

運転手沢井真と直樹・梢の兄妹は、そのようによろよろとした生き直し=行き直しの彷徨を続け、海というひとつの場所のひとつの瞬間に終着点を見い出していく。そうして直樹と梢は初めての声を取り戻す。沢井もやっと言う「帰ろう」。そして「EUREKA」のタイトル。最後になって現れる。

同じレッスンを、私たちもまた『ユリイカ』という映画の時間を過ごすことで実地に受けるのだ。バスがゆったりと走っていく風景。停っている風景。大きな窓ガラスに移ろいゆく風景。いずれも不思議なほど胸にしみる。そんな眺めと流れの把握がレッスンの基礎になる。言うなれば、常識や世間という歯車から外れてしまった者が、もとの慌ただしい歯車ではなく、もうひとつ別のリズムやペースを得るためのレッスン。『ユリイカ』の眺めや流れなら、そっと乗れるにちがいない。乗ることができたなら、再生と出発はきっとかなう。このバスは、なにか世界そのもののリズムやペースに近づこうとして運行しているのかもしれない。

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そもそも映画製作や映画鑑賞とは、このようなレッスンでこそあるのではないか。自分や内面や周囲の景色をこんなふうに描くこともできるじゃないか――そんな多様なレッスン。そして私たちは、見たこともないものを見たときに初めて、考えたこともないことを考えることができる。さまざまなシーンに触れることは、だから重要だ。世界の違った眺め方と流れ方を知ることが、ぜひとも必要なのだ。映画(あるいは旅)という体験は、ときとしてそれを可能にする。忙しい日常ではなかなか機会がない。

無数にある映画のうちこの作品だけがそんなに違うのか。私には違うように思える。『ユリイカ』のリズムとペース。眺めと流れ。これまでになく映画に目を凝らし耳を澄ましている自分を実感する。すると何気ない風景にもことごとくサインが刻まれているように感じられてくる。それを探してみるゆとりも十分ある。それは、田舎道の踏み切りで梢が自転車をとめ線路をじっと見つめるようなことだ。実家の部屋に戻った沢井が、電灯を一度消して再び点灯しまた消してまた点灯し、というようなことだ。

これは私にとって「映画とは何か」の一つの答だと思う。「映画とは何か」とはまた大仰で答えようもないようだが、ちょっとした発見が初めての言葉になった。こうした映画というレッスンを、人はさまざまな作品から受けるのだろう。そのときは、自分に固有の手続きや手さぐりが必ずどこかに存在すると信じることが大切だ。いつか奇跡は起る。私は今さらながら、まさに『ユリイカ』という名の映画において、映画というユリイカに遭遇した。

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全編どこをとっても見事なシーンばかり。

バスの緩やかで静かな走りは、映画の最初からずっと、美しいだけでなく少し恐ろしく息詰まるようにも感じられた。それは旅の終盤、いよいよ波の音とカセットの音楽も響いてきて、海沿いのややカーブした道路から、松林と砂浜の造形を経て、梢が海に入っていくシーンへと極まっていく。まるでこの世とあの世の境界、しかし天国でも地獄でもないイメージだ。ここまで巡ってきたすべては、このイメージの前触れだったのか。

その前のクライマックス――。直樹の手にナイフがある。物音に振り返ると夜道の奥から女性が歩いてくる。追って行って刺そうとするが、車の音に気をそがれて果たせず、女性は車で去っていく。代わりに沢井が現れ、格闘になる。沢井は自分の手を切って血を流し、直樹の腕にも切りつける。ここで2人は最初で最後の決定的な会話を交わす。さらに沢井は、置いてあった自転車を引っ張ってくると、直樹を後ろに乗せてその場をぐるぐる回りながら、もう一度決定的な質問を直樹に突きつけ、直樹はやっとの思いでそれに答える。映画の緊張が最も高まるシーンだろうが、全体を2カットだけで収めている。いやそのような長回しであることに意識がいかなくとも、この迫力には誰しも打たれてしまうだろう。

映像はいずれも端正で落ち着いているが、カメラは思いのほか動いている。幅の広いゆっくりした横への動きが目立つ。沢井が購入したバスの到着シーンが典型だが、カメラが動くといつも意外なものや新しいものが映る。

のどかな湖畔のやや広い光景。バスが駐車している。洗濯物も干してある。梢と秋彦がバスから離れて歩いていくのを、カメラは横に移動して追うが、2人が遠くなると、こんどは手前の土手に座っていた直樹がフレームインしてくる。直樹は、意表をつくように土手を敷物で滑り降り、バスのそばで眠っている沢井を気にしつつも、無人のバスに乗り込んでいく。このあと直樹はこっそり運転席に座ってハンドルを握ってみる。

神社のわきの木陰に停めたバスの正面が大写しになっている。車内では沢井が熱を出していて秋彦に促されて横になるなど、動きや台詞が多いのだが、その様子はすべてフロントガラス越しに見せられる。カメラがそのままのサイズで右に動くと、空き地があり、梢が初めてのポラロイドを持ち出している。そのあと秋彦と梢が銭湯に行くために沢井と直樹を置いてバスを出ると、カメラはぐるっと180度回転し、2人の歩く姿を再び捉える。2人は神社の敷地に入っていく。そのとき秋彦はこっちを見ないが、梢は心配そうにバスを振り返る。

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沢井はその人格を周囲からけっこうなじられる。特に若い秋彦は容赦しない。「あんた、自分じゃそんなつもりないだろうけど、かなりナルシストだよ。一人でやってるぶんには勝手にどうぞってかんじだけどさあ。あの子たちを巻き込まないでくださいよ」「すんません」「いい気なもんだな、まったく。そうやって謝って頭を低くしてれば、いつか通り過ぎてくって思ってるんでしょ。そうやって生きてきたんだよね」。沢井が直樹と梢をバスに乗せて家から出ると告げたときも、秋彦は呆れて言う。「なにバカなこと言ってんの。この子たちがバスなんか乗りたいわけないじゃない。そういう押し付けやめようよ」。

また、沢井は殺人の疑いをかけられているが、強く抗う様子もなく淡々と出発の準備にいそしんでいる。その態度に刑事は腹の底にあった嫌悪を隠さない。「沢井さん。オレあんたいちばん好かん。あんたの目はまるで俺たちの仕事が意味なかちゅう…」

沢井はバスジャックの惨劇から立ち直れず2年間も行方をくらました。妻は沢井の父や兄夫婦が同居する家に一人残され、やがてそこを去った。沢井が戻ってくると、妻は本心かどうか分からないが離婚をもちかけ、沢井も黙ってそれに応じてしまう。再会した沢井が「やり直そうと思うて家出て…。ばってん、どこへ行っても、結局やり直しはできんやった。振り出しに戻るっちゅうか。どこ行っても続きは続きやけん」と言ったとき、妻は、違うあなたはやり直したのではない、逃げたのだ、自分のことばっかり、私のことはなにも考えないで、ときわめて優しい笑顔で責める。沢井はおずおずと同意するしかない。ただ最後は「うそ、まこちゃんあたしのために生きてくれたよ。あたしわかっとるよ」といっそう淋しそうに笑ってもくれる。正装していった沢井は妻の前では取り乱さないが、そのあと飲めない酒をしこたま飲んだらしく、完全に酔いつぶれた姿のカットが続く。よほどひどく辛かったことが窺える。幼い梢を前に声まで漏らして泣く。

沢井は聖人でも鉄人でもないのだ。自分に似たものを沢井に感じて映画を見ていた人は、これらの非難がリアルなきつい一撃に感じられたのではないか。こうしたところでは沢井自身、迷いや弱さを操りきれないままなのだろう。

ただ最終的に沢井は、常識的な見解にはけっして妥協しない。それが鮮明にみえたと思ったのは、やはり直樹とナイフを挟んで対決するあの場面だ。直樹は問う「なして、殺したら、いけんとや」。沢井はこう答える「いけんとは言うとらん」。沢井は「人を殺してはならない」という無条件の前提には立たない。そしてこう諭す「殺しとなったら、いちばん大切かもんを殺すばい」。

この映画はバスジャックで人が無差別に殺される事件から始まり、映画が進むにつれてなお見えない通り魔が近辺の人を次々に殺している。沢井は、そのような残虐でしかもあっけない行為を運転手として目の当たりにし、自らも殺人の衝動に苛まれたようだが、それは強く拒まなければ人間でなくなってしまうと考える。そうでありながら、拒みきれず殺人に及んだ直樹に、「殺してはならない」と単純には断じない。殺人という重くしかも通常の想像には収まらないような現実に、この映画は戸惑いつつ向き合い続ける。利重剛が演じたバスジャック犯も、彼を主役にもう一本別の『ユリイカ』を撮ってほしいと思うほど印象的な存在で、そういうところにも殺人ということの割り切れなさがのぞく。

格闘のあと直樹を連れて警察に出向くところでは、沢井は一言こう言う。「生きろとは言わん。ばってん、死なんでくれ」。この言葉も身にしみる。とはいえ、「殺すな」とは命じなかった沢井が、「死ぬな」とは求めたことになる。こうした微妙に矛盾もする姿勢に、沢井の最も強い信念が現れているとも言える。

一段落したところで秋彦は、直樹は一生病院か刑務所だろうが、一線を超えた者は隔離すべきで、直樹もそれが幸せだろう、などと呟く。沢井はすぐさま聞き咎め、秋彦をバスから降ろして殴りつける。そして怒鳴る。「なんが幸せか。そげんもんが幸せでたまっか!」。

ちなみに、これまでも秋彦は常にこのような訳知り顔なので、沢井とはどうしたってソリが合わないと感じられる。それなのに沢井は秋彦を排除しないから、すっきりしなかったのだが、ここで決着かと思う。しかしながら、最後に梢が初めて声を出して身近な人の名を叫ぶとき、「犯人の人」も「秋彦くん」も含まれている。映画としては、家でもバスでも直樹と梢は話さないので、沢井には秋彦と会話させるしかないし、沢井の人物像もそれによって際立っていくのだが、秋彦の性格自体に青山監督はどんな価値を置いたのだろう。

ともあれ、沢井は「他人のためだけに生きる」ことにむしろ自分を賭けた。そんなレッスンを見いだし、試みた。その道程がこうした逡巡や信念となって結実した。そしてバス行脚の果てに、直樹と梢はようやく生を取り戻す。そして沢井はおそらく病気で死ぬ――これを自覚したがゆえの賭けだったともとれる。

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それにしても、スクリーンに映っただけの景色や会話というものが、個々人それぞれの思考や記憶をそんなにも都合よく揺さぶったり、ぴったり通じたりするものなのだろうか。

きっとそういうものなのだ。自分がそれまでに獲得したあらゆるイメージや言葉はおそらく一体のネットワークを成しており、しかもそれは社会を介して他人とも結びついている。十分に練りあげられた映像や台詞は、そこを強く活性して無数のイメージや言葉を喚起できる。だから映画は個々人それぞれに切実な反応や意味をいくらでも与えうる。あらゆることがなにかの喩えになりうる。しかもそれは人によってそれほど異なってはいないと私は思う。そもそも「心が動く」というのは、自分の外部のなにかが動くことによって自分の内部のなにかが動くことを指している。

ただしそれは、イメージや言葉は汎用性をもつということでもあり(この話は5.21にも書いた)、したがって私たちは生きている間に「そっくり」と言いたくなるような表現に何度か出会うのだろう。『ユリイカ』からヴェンダースの『さすらい』やアンゲロプロスのカメラワークや中上健二の『枯木灘』などを連鎖的に思い出したのは自然なこと。では、これらはみな紋切り型になっていくのか。『ユリイカ』の映像や台詞もやがて陳腐化するのか。

たしかに、今書いているような感想文が反復されるたびに、映画の輝きからは遠ざかっていくのだろう。また、沢井の真似をして「いつか直樹は帰ってきて無くしたものを取り戻す。そのとき俺は死んでも直樹を守ってやる」と弁じても、きれい事かお説教にしかならないのだろう。しかし、映画そのものは、始まりから終わりまで固定して完結した2、3時間の体験であり、しかも映像や台詞はいずれもそこでただ一回だけ映じられ発せられる。現場での演技や撮影はなおさら掛け替えのない行為だったろう。だから、映画は永久に新鮮なのだと言うこともできる。さまざまな解釈を伴う一方で、不動の文脈と一度きりの衝撃を保ちうる。

(かつて劇場鑑賞してこれほどの感動には至らなかったのは、ひとえに眠かったせいだろう。今回DVDで見直してあまりの不覚を思い知る)


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追記 2007.4.26
雑誌『ユリイカ青山真治特集(2001.2)の、鎌田哲哉「『EUREKA』と「紀州ツアー」」をたまたま読んだ。虚をつく、見逃せない、批判。忘れないこと。

《たとえ全てを青山が故意に行なったとしても、見たいものだけを見るファンタジーが何を抹消するかを私は進んで問うだろう》。

《総じてこの映画では、荒廃を扱う視点自体がどこか処女的で熟しきっていない。ある特権的な偶然が、それを純化するのに都合の悪い偶然を不思議な自然さで避けて通る。「殺されなかったかも知れない」偶然性を苦痛のぜいたくに純粋培養できるのは、たとえば「保険金が入らなかったかも知れない」偶然性を捨象する限りにおいてだ。主人公たちの不幸は、現実から繰り返し試されたものでは決してない。事件の記憶は、その忘却を強要する生活上の諸条件を通過して、にもかかわらずそれらを超えてなお生き延びる低音としてあるのではない。主人公たちの荒廃は確かに不可避だ。だが、ある特殊な物質的条件がそれに事後的に加担していることも同程度に確かだ。その後者を不断に意識させる別の光学がこの映画にはない。そのために、時代(実は自分)の病が重いと強弁したい、暇で健康な批評家どもの自尊心をこの映画は確実にくすぐる。その時彼らが、沈痛な表情をしながら最低限の自己相対化もできないのは目に見えている》。