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【2019 輪廻転生】

青木淳悟『四十日と四十夜のメルヘン』(新潮社)


新潮新人賞を受けた表題作「四十日と四十夜のメルヘン」を読んだ。青木淳悟は79年生の新人作家。受賞時は大学生だったという。それに続く「クレーターのほとりで」も収録されているが、こちらは雑誌ですでに読んだ。ASIN:4104741019

2作品とも不思議と形容するのがもっともふさわしいような面白い小説だった。どちらも、読み終えた瞬間、まったく同じ楽しみをそっくり反復するためだけに(なにかを確かめるためなどではけっしてなく)すぐにでも冒頭から読み返したい気にさせる小説だった。ふつう小説を読んだあとは疲労感と達成感にまどろむだけで、なかなかそこまでは思わない。希有なことだ。前評判の高さに乗せられた影響がまったくないとは言わないが。

それにしても小説というのは本当に正体の分からない営為だとつくづく思わされる。ひとこと感想というなら、そうなる。そう思わせるときがあるからこそ小説というのを捨てられないのだし、それを強く思わせる小説にこそ強く惹かれるということも改めて確信する。小説の不思議さというのは、やっぱり他のどんな営為のどんな価値によっても替えがきかない。同様に、他の営為にとっては、小説などというものは、少なくとも同次元のままで役に立つものではないのだろう。――こういうことをいつも書いている気がするけれど。

というわけで、2つの小説をどう読んだのか、ましてや、どう読むべきなのか、どう読みたいのか、うまく言い表せない。まあこれまでもずっと、小説という営為の核心なんて分からないまま勝手にあれこれ書いてきたのだけれど…。


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私の感想は先送りし、ネットで読めるレビューを紹介。


まず「四十日と四十夜のメルヘン」について。
http://d.hatena.ne.jp/yaginov/20050304胎児のみる夢
http://d.hatena.ne.jp/ishmael/20050316モウビィ・ディック日和
追加:http://blog.goo.ne.jp/urat2004/e/9daf1d73142c128d06c1e0d72971541a考えるための道具箱
これらの界隈に有益なレビューがまだいろいろあるようだ。


さらに追加:http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/nisenikki.html偽日記 05/03/03)
これまた唸りたくなるほどの分析


「クレーターのほとりで」については、新潮新人賞の選者でもある保坂和志氏の長い評がある。
http://www.k-hosaka.com/nonbook/megutte11-2.html

このなかで、むむ!と目を見張った箇所――。

《この『クレーター』では、「全体としてこういうことが起こった」ということが書かれていないだけなのだ。――ではその「全体」を作者はよく知っているのか?先取りになってしまうけれど、作者はたぶんあまりよく知っていない。/
「あの人はどうなったのか」「この人はそのあいだ何をしていたのか」という具体的なことは、作者に直接問い合わせればきっとすべて明快に答えてくれるだろう。しかし、ここで起こったことの全体がどうなっていて、それを「全体として何と呼べばいいのか」という質問にはきっと答えられないだろう。つまり、この小説にはメタレベルがないのだ。》

《前作もそうだったが、青木淳悟の小説は、暗示や象徴がいっぱいにちりばめられているが、それを統括するメタレベルは書かれていない。それはいわゆる「読者の解釈に委ねられる」のではなくて、もっとずっと非−人間的で、カフカと同じように、書かれたすべてを記憶するしかないものなのではないか。聖書もそうだし、本当のところすべての小説がそういうもので、私たちは、現実によって小説を解釈するのではなくて、現実に出会ったとき小説が思い出される。つまり小説によって現実が解釈される。》

「四十日と四十夜のメルヘン」にも触れている。↓

野口悠紀雄の引用をエピグラフにして、人を食ったように始まるこの小説はしばらくは作者の意図がどこにあるのかわからないまま、細部ばかりが明快で、全体がいっこうに見えてこない(という、それ自体すでにじゅうぶんに戦略的な)状態で進んでいく。その明快さは言葉づかいによるもので、小説らしい隠喩的な言葉の使用法によって書かれていないために、書かれていることの奥で醸し出されるはずの意味がない。つまり情緒がない! 》


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「クレーターのほとりで」を読んだときの感想は一応こちら。
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20041211