東京永久観光

【2019 輪廻転生】

この問題の可能性の中心(かもしれない部分)

さらに追加


http://d.hatena.ne.jp/fenestrae/20041019はてなダイアリー『fenestrae』)
ブログとしては長めだが、得るところ大きいので、少々我慢してでもぜひ。
一部を以下に引用。

《私が「事実」としてショックを受けるのは、2人の兵士が100人の中国人を競争で日本刀で斬ったかどうかよりも、それが読者の興味をひく記事として当時の新聞に堂々と大きく掲載され、戦意高揚とまで考えられていたまぎれもない事実、そうした事実が報道されながら軍もなんら問題にすることもなかった事実であり、そうしたことがまかり通っていた、当時の日本の文明としてのありかたである。私はこの事件が新聞記者の創作であればなおのこといっそう、それをよかれと思ってやった新聞記者の世論に対する感覚を思い慄然とする。(中略)もし2人の行為が汚名であれば遺族には最後まで闘い真実を求める権利がある。しかしこの問題を政治的に解釈し、これが新聞の創作であることが証明されれば、日本人の汚名が返上できるといわんばかりの論をはるものは、この点に関する日本人全体の名誉についてどう考えるのだろうか。》

《…過去を時代の文脈におき、人々の行動を相対主義の相のもとで理解することは確かに必要かも知れない。しかしまたわれわれには、現代につながる近過去を、新しく獲得した現代の価値基準で見、そこからショックを受け、受け入れられないものとしてはねつける権利も義務もあると私は信じる。もし理解という行為があるとすればそれはその権利を行使してからのことだ。》

《相手の議論の1%の隙をつきながら行われる「なかった主義」の議論、それは、どこまでも枝わかれする細部に次々と入り込んだり論点をずらしながら、それぞれの場所でいくばくかのポイントを稼ぎ、それによって中心部分までも否定したかのような印象を与えるテクニックの駆使によって展開していく。知的ゲームとしてのそれを読むはめになるとき、無念を背負った死んでいった人々の残したまぎれもない物理的な跡を見たり、いろいろな思いを背負った残された人間との具体的なこれまでの出会いなしには、自分もその「なかったゲーム」の担い手になっていたかもしれないとふと思うことがある。》


 *


この記事をうけ、
相対主義つまり昔のことを今の感覚で断じていいかどうか、をめぐる意見。
http://d.hatena.ne.jp/flapjack/20041026
歴史に対しては「理解」だけでなく「是認」という応じ方が
別個にあるのでは、といった逡巡。


相当飛躍するが、私の言い方に無理やり結びつけてしまうなら、
南京大虐殺を、私たちは楽しく議論できるのか、楽しくは議論できないのか」
といった問いに通じるのではないか。