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【2019 輪廻転生】

理屈もいろいろ(人生も)

http://d.hatena.ne.jp/hizzz/20040915(「言語の思想」@『ネ タ の タ ネ』)

一口に「理屈」(論理というか)といっても、使い方は「いろいろあるよね、ほら」という、まったりくっきりの名解説。

まずはよく話題になる「日本の理屈/欧米の理屈」。その差がどのような動機というか性根から来ていたかを抉っている。だから日本の民としては、「なるほど〜」より「すいません…」という思いが先に立つ。

私にとってツボだった部分を、乱暴に切り取ると――

《…ことさら呼応相手に謙譲の美徳を発揮して過重配慮する為(それが承認してるよという相手へのシグナル=陰喩作法となる)に「断定」をさける話法になる。なにを謙譲してるのかといえば、発話内容と〈個〉に隔たりをもうけて責任を避ける為だ。》

《第一に「謙譲」して相手のことを全面的に受け入れることで自己を消す、第二に消した自己を先に「謙譲」というカタチで承認した相手に自己を受け入れてもらう。こういう双方向の流れがあってはじめて、相互承認の互譲性コミュニケーションは、互いの(言葉になっていない)真の意図を達成する。》

「これってオレのことじゃん!」 そう反省するのは私一人ではないはずだ。

この態度はまさにブログに現れる。いや断っておくが、なにか書こうとする段階の動機は決してそうではない。むしろそうであるまいとして書き始めるといったほうがいい。ところが、にもかかわらず、実際に文章を書いてみると、その文章はなぜか自動的にそのような動機をまとってしまう。イヤだイヤだと思いつつ、書き直せば書き直すほどよけいそうなっていく。

しかも、この態度の頂点に君臨するのは――

《そぉんなことに最強の日本語話法は、「官僚答弁」だったりする(苦笑)。アレは確かに「オレを認めろ」アイデンティティはないが自己の意見もない。ひたすら属するハイコンテキストの意見だけがある。そのハイコンテキストの意見と自己をびったり同調させつつ、絶対しっぽをつかませないような立ち位置バリアでくるんでるトコが、いかに波風たてずに文意を納得させるか、一番やっかいな人格批判を退けるのに最強なんである。》

とほほ。私の役人嫌いは近親憎悪だったかも。

次は「筋肉の理屈/頭脳の理屈」。ちょっと意表を突かれるが、実はいっそう身近であり、これを見過ごすと世の中は分からなくなる、といった重要さすら感じた。

たとえばスポーツには、勉強の理屈とは顔が違うけど、ちゃんと理屈はあるよという話だ。しかも先のオリンピックの勝ち負けも結局そこに結びついていたのでは、という分析。さらに面白いのは、でもスポーツはその理屈を見せるためにやっているわけじゃない、という指摘。というか、理屈を見せるのが目的の仕事なんてこの世にはあまりないよ、だからこの筋肉の理屈は勉強の理屈よりずっと汎用性を持つのでは、という結論にも、深く納得。

最後は伝統の一戦とでもいうべき「英米の理屈 VS 独仏の理屈」。その7回裏あたりの攻防と戦略を実況する、といったふう。