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【2019 輪廻転生】

書を捨てよ、ネットにこもろう、田口トモロヲ


高橋源一郎が若手作家5人にインタビューし、自分の言いたいことも余すことなく盛り込んでしまった感のある『広告批評』(8月号)は、ときどき読み返す。「え、なんでそんなところ?」と意表をつくツボが、押してみればどれもみごとに「うわあそれだ、そこそこ!」の快さ。やはり「さすが」と言うしかない。平野啓一郎への質問がまた、「で、まずちょっと聞いてみたいのは、これ、あんまり聞かれないと思うんですけど、書いてて楽しいですか?」の一押しで、その刺激はまさに脳天に達す。もちろんそこは平野啓一郎の、実はものすごく凝っていた、ナマっていた部位に違いなく、それがまずほぐれたせいか、デビュー以来の創作の驚くべき壮大な魂胆が自然と口から漏れはじめる。

5つのインタビューとも、小説を書く者どうしの共感なんだろうなというものが、端で聞いていて羨ましいほど横溢してくる会話。しかもやっぱり高橋源一郎という人は、とにかく小説が好きで好きで仕方ないのだなということがありありと感じられ、こっちまで「よ〜し、小説なんでもOK!」という爽快な気分になる。

さて、もちろん小説とブログでは、ハンマー投げとテコンドーほどにも異なった種目だと思うが、こういうブログをともあれ書き続けている私も、他の大勢の人たちも、「楽しいか、好きか」といわれれば、少なくともみな好きでもないのに書いているわけはないだろう。その規模を思うと、なんとも奇妙な道具というか媒体というか仕組みというか、このヘンテコな玩具、歴史上あまりに性急にあまりに一斉に与えられたものよ…。


それとは関係ないけれど、このところ大岡昇平の「俘虜記」と「野火」をまとめて読んだ。新潮社の古い日本文学全集で、A5判という手ごろな大きさ。それでも表紙は丁寧に布が張ってあり、さらに赤い箱に収められている。それが近くの古本屋の100円ケースに揃って並んでいたので、つい一冊買ってしまい、あまつさえ、つい読み耽ってしまった次第。

戦地の体験がきわめつけの特殊であるとしたらまずはこういうことなんだろう、それを実際に反映させた場合の戦後文学の代表格とはこういうものなんだろう、それを強く納得するとは、こういう読書をさすのだろう、という感想。

ところでこういう小説は、「書いてて楽しい?」なんていう質問は最も憚られる。しかし、死屍累々の敗走を「好き」という人はいないにしても、そのことを大岡昇平は結局は「好き」で書いたのだ、という確信もまたある。それを思うと、高橋源一郎のインタビューで、小説がつくづく好きじゃなくて書いているとためらいなく言っている中原昌也には、「野火」以上にめまいを覚える。現代は確かに特殊な時代だろう。しかし戦地をしのぐほど特殊かというと、そこはなお言いよどむ。それでも現在の小説書きという所作には、なにかいっそう空前の特殊事態が迫っているのかと考え込ませる。


それはそうと、このあいだ、経済も言語もまずは「交換してみること」が大事、などと書いた。この古ぼけた旧仮名遣いの『大岡昇平集』も、誰か知らないが押入れに貯め込んだり燃やしたりせずに、たった100円でもこうして交換を促したおかげで、私は読まされるハメになった。ありがたい。しかしながら…、著作権は嘆く「僕って何」?