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【2019 輪廻転生】

テクノロジーやばい


福田和也イデオロギー』から最初の評論「テクノロジー」を読んだ。

「テクノロジーやばいよ。人間まるごと覆っちゃってるし。やばいやばい。思想とかあるなんて思ったら甘いよ。もうテクノロジーばっかなんだから。やばいって、ほんと」。結局こういう主張か。いやそんな単純なはずは…。もう一回読んでみよう。

まず問い→《テクノロジーの外に、思想なり思惟なりといったものは存在し得るのか。あるいは最早その圏内にとうに取り込まれているのか。》 そして結論というなら→《…今やテクノロジーが人間を自らデザインし、作りだせる段階にいたった以上…》《…人間的な学問の対象となるのは文化、歴史だけだ、という問いは意味をなさなくなる…》《…つまりは、あらゆる事象がテクノロジーに覆われている以上、歴史も文化もその範囲にあるのではないか…》《…この言葉は…》《…テクノロジーを生理とする人間、それまでのあらゆる文化を、そして歴史を切り捨てて、テクノロジーのダイナミズムにのみ忠実に生きる人間の射程を云いあてている。》

もちろん、この問答のなかには、哲学と歴史の輝かしい糸が無数に織り込まれていく。たとえば、この問題の核心を射ぬいたアーレント。すでに予見していたハイデガーベンヤミンは微妙でテクノロジーに近代の人間主体の断片化を標榜したが(ちょっと甘かった?)――などなど。そして、なによりファシズムボルシェヴィキはそろって、テクノロジーを駆使するところにこそ新しい人間の改造や真理の創作を期待して礼讃した、といった趣旨で論じられていく。この絢爛たる知の綾が読みどころ。

では現在の例はというと、遺伝子工学にちょっと触れている。この種のテクノロジーは「超やばいよ」という指摘なのだろうと思うが、遺伝子工学自体の詳しい考察はない。


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さて。いわゆる「人間がテクノロジーに支配される」。今この言説は非常にかまびすしい。そこには、現代を特徴づける「情報にかかわる高度なテクノロジーの浸透」は、かつての自動車やテレビなどの技術とは明らかに異質だ、という前提があるようだ。例にあがった遺伝子工学も、風邪薬とか避妊具とか入れ歯とか眼鏡とかそうしたものとは次元が違うんですよというふうに。でもそれホント?という議論はきっと面白いが、今はさておく。

それよりも、この時代のテクノロジーによる人間の変容というなら、私は毎度ながら「インターネットの日常化」という事態を思うのだ。要するに、我々はこれまで、記者や学者でもないかぎり文章なんてあまり書かなかったし、ましてや自分の暮らしや考えをこぞって書き連ね、無数の他人どうしで読みふけって夜が明けるなんてことは、まずなかったという事実だ。せいぜい10年たらずの歴史。

それがどういう意味を持つかはいろいろ考えられようが、福田和也がこの論を始めた動機「テクノロジーがすべてなら思想はどうなる」にちなんで、ひとつだけ――。「思想」というがその実体は、この固有名で著わされた『イデオロギーズ』のような出版物が積み重なっていく戸棚のことだと信じられてきたのだ。おそらくここ500年くらい。ところが20世紀末になって我々の読み書き様式を一変させたこのテクノロジーが、旧様式の思想をいよいよ凋落させていくかもしれない、とまあ非常に図式的にみることはできる。だったらどうするという話だが、これからは福田のような知の担い手は「一人はてな」をやってみるとか、どうだろう。人文系なら何でも来いと。「そんなだから思想が死ぬんだよ!」か。

…と本気で考えていたら、ベンヤミンを評した同書の記述が印象にのこった。引用しておこう。《(ベンヤミンは)自らの著書、著作を執筆するよりも、むしろ引用のための抜書きをし、執筆した量の数倍のボリュームになる引用のノートを残した。つまりは書くことにおいて主体であるよりも、むしろ模倣者であり、書記であることを選んだ…》 なんというか、ニュースクリップのブログみたいだ。


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イデオロギーズ』ASIN:4103909099


「一人はてな」は、自然系のQ&Aならそのようなサイトがある。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/yoshida_n/qanda_04.htm


囂しい(←変換したら自分も読めなくなる漢字ランキング1位)