ウェブサイト『哲学の劇場』の両名が執筆した『心脳問題』を読んだ。
自分でわかっている心(たとえば肉親が死んだときの悲しみ)と、科学がこうだという脳(その悲しみが起こっている仕組み)は、ぴったり一致しているのかと思い浮かべていくと、必ずどこかでこんがらがってくる。それは、心と脳の関係という問題設定が、こんがらからざるをえない無茶を元から抱えていたせいだと考えられる。その無茶の正体をとりあえず易しく整理してくれるのがこの一冊だ。
著者は、この無茶を「ある種の哲学的な病気」とも形容しながら、それを解毒する道筋を二つ紹介していく。一つめは、日常で経験している世界と科学が記述する世界とは同じものの「重ね描き」なのだ、とみなした大森荘蔵の考え方。一言だけ引用すれば、《自然があり、それを眺めるわたしの心がある。このように考えることはすでに袋小路に迷いこむことだと、大森は言っているのです。》というようなこと。
しかし著者は、これは対症療法にすぎないとして、最終章でさらに本質的な治療を、池田清彦やベルクソン、ドゥルーズを参照しながら示す。こっちも簡単にまとめれば――。私の心というものは「一回限りで一続きの生」というふうな現れをしている。しかし科学というのは、同一とみなせる部分を切り取りその反復に一般性を見いだす作業なのだから、心や生という特異なもの持続するものを科学が扱おうとすれば、必然的に齟齬が生じてしまう。《…肝要なことは、わたしたちはいまだに持続そのものを適切にとらえる言語をもっていないことを自覚することです。次に忘れてはならないことは、持続はその本性上、同一性や一般性では記述しつくせないことをわきまえることです。》これが、治療できないこの病気に対する究極の処方箋だ。
なお、同書は中盤で、脳科学が高じれば将来はいわば脳工学が遺伝子工学と並んで日常に浸透してくると予測する。そのとき人間の統治は、権力に直接支配される形ではなく、規範をそれぞれの内面に馴らしていく形でもなく、脳や遺伝子を好んで制御するという形、言い換えれば、生そのものを各自が情報的にコントロールするという形によって成し遂げられるだろう。そのような事態を、フーコーやアガンベンの思想を交えながら考察し、検討を強く促している。このパートは面白いが予想とは違った展開だった。その背景には、脳すなわち心を改変してしまえば我々が世界像を構成する方式そのものが直接変わってしまうから、もはやどんな問題や利害があったのかを事後的には理解できなくなる、といった危惧があるようだ。それを考え含めると、このパートを重視した動機も少し納得できる。
チャルマーズの『意識する心』が難しくて読みあぐねた人とか、心と脳について考てるといつもこんがらかるのは、原理的なアポリアのせいか、それとも単に自分の考えが足りなくてそうなるのか、それ自体が常にこんがらかるという人に、ちょうど良い入り口なのではないか(と他人事のように言っておこう)。
巻末には多数の参考図書がかなり丁寧に紹介されている。手ごろで読みやすいが「これは根源的ではないか」と私なりに刮目した本もけっこう挙がっていて、嬉しい。たとえば『〈意識〉とは何だろうか』『ロボットの心』『考える脳・考えない脳』『アフォーダンス』『ゲーム脳の恐怖』『構造主義科学論の冒険』『コウモリであるとはどのようなことか』『生存する脳』など(1冊だけ嘘)。
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『心脳問題』 ASIN:4255002770
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さてさて、再び引用するが、《…肝要なことは、わたしたちはいまだに持続そのものを適切にとらえる言語をもっていないことを自覚することです。次に忘れてはならないことは、持続はその本性上、同一性や一般性では記述しつくせないことをわきまえることです。》 私はこれを同書最大のメッセージととらえ大いに示唆を得た。しかし全く逆、というより全く別個に、以下のような発想も浮かんできた。
目の前に物があるとき、人間なら見えていると同時に「見えている」という意識が生じているが、ビデオカメラならただ見えているだけなので意識は生じていない、犬や猫ならおそらく意識があるだろう、金魚にもあるかな、ヒマワリにはなさそう、じゃあコオロギはどうなんだ、――というふうに「意識」をこうした言語適用感からまず枠付けしてみる。そして、この意識があるかないかの分岐点は、入力された信号をなんらか「分節したり表象したりする作用」が生じているかどうかだと仮定してみよう。さて一方、自然や身体それ自体は、同書と同じく、「持続そのもの」の有りようをしているとみなす。脳も臓器としてはそうだろう。しかし意識は、分節や表象とイコールなら、なんらか同一性や一般性に支えられて形成されるわけで、持続そのものではありえない。意識とは、自然や身体がそうである「持続の側」に属するのではなく、自然や身体を分節し表象する「言語の側」「科学の側」に初めから属していたことになるわけだ。
いろいろ用語を置き換えただけと言われそうだが、ともあれ、「意識=分節や表象」というのは、ちょっと拘ってみたい観点だ。意識という分節や表象をどんどん複雑に精密にしていくと、やがて人間の心になるだろう。とりわけ言語や科学というのは、分節や表象の極点、心の極点だ。しかし、猫や金魚でも、まったく異なった形式であれ、意識=表象や分節という作用はありそうに思われる。コオロギやアイボすら、それが絶対ないとは言えない。まとめて繰り返すが、自然や身体そのものだけが「持続」しているのであり、言語や科学も、人間の心も、あらゆる生物の意識も、いずれも「持続」ではなく「分節や表象」として生じてきた、と考えてみようというわけ。