アメリカ人が「星条旗よ永遠なれ」をアレンジしたり
のびやかに歌ったりするとき、
いかにも自由を象徴しているようで、
実は、アメリカという国のパターン化された歴史や価値観、
あるいはアメリカ人であること自体が、
(懐深くにこやかに、しかし厳しく容赦なく)
神聖化されていくようにも感じるんですけどね。
以下は、かなり曖昧な記憶ですが――
かつてオリンピックの表彰台で
ある黒人のアメリカ人選手が、
国歌や国旗を拒否する態度を強く表したとき、
アメリカ人はそれを容認したんですが、
そのあと別のオリンピックの表彰台で
同じく黒人のアメリカ人選手が、
国歌と国旗を尊重するでもなく抗議するでもなく、
あやふやであいまいな態度を見せたときは、
アメリカ人はそれを受け入れなかったという、
そんなことがあったと思います。
(つまり、アメリカの自由には、なんでもOKのゆるさなどは全くない)
アメリカの模倣だからおもしろくない、
というのは共感するんだけど、
アメリカのあり方自体、べつに面白くないし、
けっこう独善性で、
真似するほどのもんじゃないだろ、ということですね。
*
サッカーのセレモニーで、歌手が君が代を厳かに歌うことは、
君が代の神聖化につながると同時に、
本当に広い意味では、
君が代のカジュアル化にもつながると思います。
しかしまた、
君が代を、たとえば村祭りで
笛太鼓を鳴らし大勢で大騒ぎして歌ったとしても、
それもまた、
カジュアル化にもつながるし、
君が代の神聖化にもつながるように思います。
どんな歌であれ、歌は歌として
涙も出れば、笑いも出てしまうものでしょうが、
それが国歌である以上、
どのように歌っても国歌たりえてしまう側面もまた
あるのではないかと思うわけです。
で、その、国歌が国歌たりえてしまう側面は、
通常は批判されるし、それは私も気持ち悪いのですが、
まったく裏腹に、
国歌が国歌であるがゆえに気持ちよいという感覚も
私にはあるんじゃないかと思っています。
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オリンピックで日本を応援するのは、
甲子園で福井商業を応援するのと、
まあ似てますよね。
でも、日本人とか日本国というまとまりは、
よくよく考えると、けっこうイビツなんですよ。
ひとつは、
地域、仲間、家族といった共同体とは違って、
大昔から自然にあったものではないということ。
もうひとつ、
それにも関わらず、国家や国民という区分は
世界中をあまりに当り前のように線引きし、誰ひとり逃れられず、
しかもその区分によって
各人の経済や生存までが大きく左右されていること。
このイビツさに注目するときは、
一般の共同体とは別枠で考えたほうがいいのかなあ。
じゃあなんでそんなイビツなものが
気持ち悪いだけでなく、気持ち良いのかというと、
それもまた、共同体一般の幻想というよりは、
やはり国家というまとまりだけが持つ
特殊な幻想に注意したいですね。
=あるMLへの投稿=