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【2019 輪廻転生】

はてなダイアラー映画百選・田園に死す

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田園に死す
寺山修司監督 1974年 日本

 田園に死す [DVD]


《大工町寺町米町仏町老母買ふ町あらずやつばめよ》《新しき仏壇買ひに行きしまま行くえ不明のおとうとと鳥》。暗闇のなかに短歌の文字が東北訛りのぼそぼそ声とともに浮かぶ。戸惑う間もなく映し出されるのは、セピア色の墓場。昔の子供たちが隠れんぼをしている。「もういいかい」「もういいよ」。子供たちはそろって背後に消え、鬼として手前にうずくまった幼女がそっと顔をあげると、墓石の脇から、なぜかすっかり大人になった子供たちが無言で姿を現す。劇場の最前列右寄りでこの映画を見上げていた私は、もう一気に目が釘付けになった。あまりに鮮やかで奇怪なイメージは、やがて極彩色に転じつつ容赦なく繰り返され、誘い込んだ視線を最後の最後まで離さなかった。

舞台はおそらく昭和20年代後半あたりの東北の寒村だろう。素朴だが、たとえば父無し児とその祟りの噂が村中でささやかれるような集落。しかも傍らには恐山という一般化できない特異な土地があり、あの世にも通じる荒涼とした風景を常に見せつけている。その集落に母親と二人で暮す15歳の少年が主人公。ここには寺山修司自身の生い立ちが当然重なってくる。少年は、サーカス小屋から覗かされた大人の世界に憧れと恐れを抱えているが、隣家に嫁いできた美しい女の手引きで、ついに母を捨て都会へ向かう汽車に乗ろうとする。

その物語は仕掛けとシンボルに溢れている。仕掛けは、細かいものはさておき、中盤とラストに出くわす二つが最大のものだ。だがまだ観ていない人に明かすのは絶対に惜しい。だから明かさない。ただ、その仕掛けはまさに映画という虚構そのものに関わる、などと言って期待を煽っておこう。解釈しやすいシンボルも過剰なほど目につく。たとえば柱時計と腕時計。あるいは誰しも息をのむはずの真っ赤な雛壇。少年の移動までが指さし看板となって具現化する。しかしなにはさておき、この物語全体が映画の本性というものを表わすシンボルとして成立していることに気づかされる。また逆に映画という存在がこの物語のテーマを表わすシンボルでもあろう。言葉にすればともに「記憶あるいは過去の捏造」ということになる。これはべつに隠されてはいない。台詞にすらなっている。ややネタばれになるが、この映画を製作している男が、少年の成長した現在の私として登場してくる。そして現在の私は、少年の私を操ることで過去を清算し、捨てきれなかった母親を今度こそ本当に殺そうとたくらむ。そのとき、私にとって記憶とは何か、映画とは何かが執拗に問われる。因襲にまみれた郷里と母子の絆という原風景を背負い、それでも「作り直しのきかない過去なんてない」とうそぶく私は、はたして過去の捏造そして映画の捏造に成功するのか。そんな物語なのだ。

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さて、寺山が年少だった戦後まもない日本の村を、この映画がどれだけ忠実に再現したのかは知らない。それでも、少年らが暮らす昼でも暗くてしんと静かな家の中は、今やほとんど見なくなった「日本式」をよく伝えている。赤茶けた板壁には先祖の遺影や柱時計が掛かり、囲炉裏もある。和服の人も多く、牛や馬が身近にいる。万屋にはカルピスや福助足袋の看板が見える。

網野善彦は、日本社会を自然と文明の関わりから眺めると、14世紀南北朝動乱の後に形成された生活文化がその後相当長く続いてきたが、現代はそうした伝統がことごとく崩壊し、再び大転換の時期を迎えている、といった趣旨のことを述べている(『日本の歴史をよみなおす』など)。そんなことを念頭に観るのもまた一興だが、映画の後半になると、そうした日本式の建具や家具が、なぜか田んぼの中に放り出されている。これは、現在の私と少年の私が郷里の田んぼの中で向かい合い将棋を指すという謎めいたシーンにある。後ろの道では、一組の男女が身体を求め合ったかと思うと、嫁入りの運びとなり、やがて子供が出来てくるという一連の寸劇が演じられてもいる。このシーンを家の開放ととらえた評を読んだことがあり、なるほどと思った。そのとき、東北訛りで短歌を聞かせる寺山修司は、そうした日本式土俗の光景や心性を、どこまでも振り払いながら同時に、どこまでもそこに拘ろうとしているような気がする。

しかもこの映画には、製作された74年(昭和49年)の日本もちょっぴり顔を出す。今回ビデオを見直した私は、なんとそこにマクドナルドの黄色いマークを見つけて可笑しくなってしまった。そうだ74年の東京ならもうマクドナルドがあって当然だ。これこそ田園に代わって都市化し郊外化していく新しい原風景のシンボルかもしれない。そんなものが図らずも(?)映し込まれていたことが面白い。マクドナルドがどこに出てくるか。それも観てのお楽しみ。

なおもう一つ。昭和20年代の集落には戦争の記憶というものがまだ色濃く染みついていたのだと、改めて強く感じられた。それは74年にはおそらく大部分が色あせていたことだろう。しかもそれだってもう30年前だ。戦後は果てしなく延長されてきた。なにしろもうすぐ還暦なのだ。戦争って何のこと? ……と思いきや、しかし今日本はイラクを通して間違いなく戦争に直面しているのだった。これはまたもや日本式の戦争なのか、それとも新式の戦争なのか。

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閑話休題――。この映画を一緒に観たある人が「こんなの高校生の文化祭だよ」と皮肉った。そのこともまだ忘れずにいる。たしかにそうだ。『田園に死す』という映画は、短歌のほかにも音楽、美術、舞踏と多様な要素が盛りこまれ、見せ物小屋のごとしだ。寺山修司はアングラ芝居等で同時代の文化潮流を決定づけたようだが、この映画の魅力もその万能の天才なくしては成立しない、きわめて個性的なものだろう。しかしこの70年代的とも言える魅力は、先ほど触れた、わざとらしい仕掛けやシンボル、思わせぶりな台詞をも伴っている。そうしたごてごてした嗜好を、高校生ならすぐ真似しそうというわけだ。高校のころ私もたとえばダリの絵画などをやけに面白がったことが思い出される。『田園に死す』は当時の日本映画を牽引したATGの共同プロデュースだが、他のATG作品はもっと写実的な表現が主流だったと思う。

田園に死す』は「捏造の映画」とでも呼ぶべきなのか。もとより映画とは捏造されて出来るものだろうが、それを通じてなんらかの真実に迫るのが大人の映画というものだ。それなのに、顔中に白粉を塗りたくった少年のどんな表情や演技にどんな真実が映るというのだ! いやしかし、寺山修司にとって、捏造とは映画の手段でもあるが目的でもあり、表現の同義語、原風景ですらあったと捉えてみてはどうだろう。『田園に死す』は今もなお、芸術っぽいことを志す者の頭を激しく殴りつけるだろう。なんでもいいから作ってみたい、書いてみたい、演じてみたい、撮ってみたい。表現がそれ以外の行為ではないのなら、寺山の仕掛けやシンボルは、いかにベタであれ刺激に満ちたお手本なのではないか。そしてもちろん私は、「映画の真実」をたとえばビクトル・エリセテオ・アンゲロプロスホウ・シャオシェンにあくまで探し求めつつ、同時に『田園に死す』のいかがわしき「映画の捏造」を偏愛せずにはいられない。


● ASIN:B00005OO63


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