東京永久観光

【2019 輪廻転生】

小説その不可能性の中心?


星野智幸ロンリー・ハーツ・キラーasin:4120034860

なにかの脚本をそのまま読んでいるような感じがしないでもなかった。これをたとえば漫画に仕上げたら、いっそうのめり込めたのではないか、とか。つまり文章表現としてお手軽に感じられたのかもしれない。じゃあ、円熟して渋味があったり個性的に凝った文体なら好かったのかというと、それはそれで面白そうだが、いま気に留めているのはそこではない。

ちょっとネタバレになるけれど、この小説の大半を占める第一部と第二部は、実はすべてウェブにアップされた手記だったことが、それぞれ読み終えた段階で分かる。第一部は「この世こそあの世、あなたも死になさい、誰かと二人で」と最終的にアジる文章で、それがネットを介してまき散らされ、第二部の題名でもある「心中時代」が到来するという筋書きだ。自分が書き込んだテキストによって世間が大きく動く。ネットで誘いあって自死などというニュースが目立つ昨今、インターネットにそうした作用がないとは言い切れないし、ウェブに文章をアップする人ならそうした効力をまったく期待していないわけでもないだろう。しかし実際には他人はそう易々と踊ってはくれない。むしろ、文章の預言のような力など、我々はかなり諦めていると言ったほうが正しい。ウェブの読み書きに惹かれる本質というのは、そうした実社会のシステムや現象との絡みとは、また違ったところにあるのではないか。

『ロンリー・ハーツ・キラー』は、天皇制については、そのくだらないおぞましい作用ばかりでなく案外おもしろい作用もありうるぞなんて、ちょっとわくわくさせる(作者は不本意かもしれないが)。ところが、ウェブを含めた文章表現については、その作用の可能性に特に心を砕いたとは思えなかったのだ。それを中心的な題材として扱いつつも。

そういう趣旨の小説ではないと言ってしまえばそれまでだ。しかし一方で、同じく中心的な題材というべきハンディなビデオを使った映像表現の可能性なら、ぐっと踏み込んで模索し例示している。でも、ビデオ表現の面白さが小説の中で詳しく描写されても、なんだか白けるのは私だけだろうか。『海辺のカフカ』でも、ある絵画や楽曲が重大な鍵を握るものとして持ちだされ、同じようなもどかしさを覚えたのを思い出す。なにか想像を絶するような和音なのだとも書かれていた。でもどうせなら和音の響きそのもの、あるいはビデオ作品自体に触れたいではないか。『ロンリー・ハーツ・キラー』で主人公たちが制作している「合わせカメラ」「無限地獄」といったビデオ作品はとても挑戦的な表現だが、それに匹敵するような文章表現が小説として成り立っていたら……。そんなことを考えた。

 *

ではそもそも、その天皇制の可能性(?)とかビデオの可能性に並ぶものとして、ウェブも絡めた文章表現の可能性って何だろう。それはうまくまとめられない。しかし少なくともそれは、どうしたってウェブを日夜徘徊している我々が胸に手をあてて見いだすしかない、ということは言える。そういう観点で、最近むむむ!と目が離せなくなったサイトをひとつ紹介。→『来襲』。3月11日から14日にかけて「ダイアモノローグ」とか「書き言葉で照れる難しさ」といった不思議な切り口で抽出していることが、どうだろう、我々が新しく意識せざるを得なくなっている文章表現の奇妙な位置の一つを、確実に指し示していないだろうか。

星野智幸がウェブに日記を書いていることは知られている(参照)。社会や文化の問題と真剣に向きあう作家の本音が窺えるサイトだ。ただここでも星野氏は、たとえばこうした「ダイアモノローグ」とか「書き言葉で照れる難しさ」といった問題にあえて向きあっているようには見えない。だから個人サイトとしてはよくあるタイプかなと思ったりもする。いやもちろん、星野氏は小説で本気の勝負をするのだろうし、ウェブはそれとは一線を画しているということは大いにありうる。それはそれで文句などないのだが、一般的な話として、個人ウェブにおける文章表現というのは、ひょっとして小説の文章表現以上に、もっと複雑で奇妙な作用を持ち「うる」のではないか、なんてことも、こういう局面で逆に思ってしまうのだった。

 *

話は変わって、『偽日記』の古谷利裕氏が『ロンリー・ハーツ・キラー』のレビューを『新潮』に書いていた。登場人物2人が、上にあげたように「合わせカメラ」と題して、互いの姿を延々ビデオに撮影し続ける意味について、こう読んでいる。

不可能なものに向かう強い傾向は、捉えきれないことの恐怖を燃料に生き生きとした苛烈な「熱さ=充実」を産出するだろう。しかしこの熱さは、ほとんど思考停止と同義語だろう。この小説において自らをカメラと同一視し、決して社会(人間関係)へと参加せず、たんに光と音を純粋に記録し記憶しようとする存在に留まる井上やいろはといった登場人物たちは、そこに留まることによって思考停止から辛うじて逃れようとしている。意味のないほどに些細な差異を拾い上げることで、思考停止による外界の遮断、内面化、出来合いのイメージへの傾倒に逆らい、外界とのか細い繋がりを確保する。
(原文はもっと長い記述なので全部読んだほうがよい。手元に雑誌がないので、これは『陸這記』が取り上げていたものを拝借した)

さてこの、処理不能なものに超越性を見い出すのではなく、過剰さを過剰さのままひたすらビデオで捕捉し続ける行為を、可笑しいことに、イカの目玉というものに絡めた考察があった。それもぜひ紹介。→『空腹海岸海の家 実行準備委員会(アジト)』。なんでも、イカの眼球は人間と同じくらい高性能だが、それを生かすだけの脳組織がないそうだ。それなのになぜそれほど大量の情報を取り込むのだろう、と首をひねる。《通過していく情報量に対し、烏賊である自分自身の質と量は、海を無目的に漂って飯食って交尾して(烏賊って交尾するの?)くらい軽いので、情報と情報の中継地点としての『相対的な場所』しか確保できないから、その場所にしがみついていないとどこかへ流されてしまいそうそれが不安。》……。

ビデオでひたすら外界を撮影しつづけること。イカの目玉の過剰な情報処理。これらは、当然すぎて誰も指摘しないのかもしれないが、ブログ、とりわけURLと見出しだけクリップしてコメントはあるかないかのニュースサイト的な情報処理を、いやでも思わせる。

ちなみに、「無限地獄」のビデオ表現に近いような文章表現というなら、小林恭二の「小説伝」という作品がそうかもしれない(参照)。また読んでみたくなった。

 *

さて、いろいろガタガタ抜かしたものの、『ロンリー・ハーツ・キラー』が面白く読めだことは間違いない。まったくよそ事でない刺激に満ち満ちている。そのまま昨日今日のニュースと地続きみたいでもある。近ごろ日常のほうがテロとかいろいろぶっ飛んでいる、ということかもしれないが。