東京永久観光

【2019 輪廻転生】

『座頭市』丁か半か


北野武監督『座頭市』。DVDにて鑑賞。ASIN:B0000A9D4A

「○○ったって、大したもんじゃないんだ、そんなの」。もっともらしい権威のことごとくを、こんなボヤキで笑いのめしてきたビートたけしも、映画だけは神聖な領域として扱っている。一般にそう受けとめられてきた。ところが今回は、なんだか底が割れた。殺陣のすさまじさ。勧善懲悪というお膳立て。そうした娯楽を周到にしかも徹底して個性的に練りあげたのは、たしかに映画職人としての才能と努力の賜物なのだろう。ところがその裏で私は「チャンバラったって、大したもんじゃないんだ、そんなの」というボヤキをずっと聞いていた気がする。ガダルカナルタカが小僧たちをつかまえて木の棒で剣術ごっこするシーンは、その象徴だったかもしれない。しかしそのことはかえって、たけし特有の虚無が底なしに落ちていくことでもあるように思われる。(以下ネタばれあり

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岸部一徳が傍らの子供におかしな顔をふいに作って見せるアップが、いやでも気になった。悪玉のイメージが崩れ、場面のトーンも崩れ、映画全体も台なしにしかねない。でもこれはたぶん目配せだ。「おじさんはね、いま悪い役を演じてるんだよ」と。

座頭市の金髪や血しぶきのCGに抵抗を感じる人も少なくない。映画のいわば自然主義いわば神聖を侵していると感じるのだろう。しかしこれもたとえば漫画表現のリアルに近いと思えば納得できるのではないか。

実際、座頭市の瞼には一度だけ子供だましの漫画目が描き込まれ、脱力させられる。ところが最後になって、奇妙にリアルな目玉が本当に光り、大人までだまそうとする。敵のために盲目のフリをしていたという設定なら、少々白々しい。しかしそのとき、そもそも役者は映画のために盲人の演技をしているという白々しさも思い起こされる。そしてそれらをみな超えて何か不思議なフリをこの男は見せているのかなと、そんなことを考えた。

もともとこの作品は、従来の時代劇のウソくささを暴くような狙いがあるようで、たとえば、刀を抜いた瞬間に隣にいる味方の腕を傷つけてしまうといった面倒な事実をわざと取り上げる。しかし、だからといって写実に徹したかというと全くそうではない。実にホントくさい時代劇を作ったと言うべきだろう。

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田んぼの農民が打つ鍬や抜き差しする足がいつしかリズムを刻んでいる。この趣向も無類の面白さだった。それが最後には、悪人どもすべてがいなくなって家や村を新しく建設していく槌音へと高まり、村人たちのタップダンスの大演舞へ、カーテンコールへと転じていく。

ここにもまた異論が出ているようだ。しかし、江戸の農民の祭りだからといって、東京の我々が踊るときのようなポップやパンクを伴っていなかったはずはないということは、まず踏まえておいていいだろう。さらに、こうした盛り上がりはハリウッドやブロードウェイの模倣なのかもしれないが、それは同時に、もっともらしい作り物を世界標準の舞台とみなして踊ることを、米国映画が照れない恥じないのと同じ程度には、日本映画も照れなくても恥じなくてもいいんだと、気づいてみてもいいだろう。それは、欧米からの眼差しとしてのみ現れる日本、あるいは現代からの眼差しとしてのみ現れる江戸が、そのままの姿で逆に欧米や現代を見つめ返してやることでもある、とかなんとかそんなふうに。

しかしそれより私は、たけしにとって映画とはけっきょく神聖で真剣な映画ごっこなのだという認識が、ここにもそのまま体現されているように受けとめた。

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目が見えないほうが真実が見える。座頭市はまさにそうした価値の逆転を象徴している(ということになっているはずだ)。ところがその座頭市、実は目が見えていたのか、というどんでん返し。さらに、目が見えているとわかったとたん、石に躓いて転ぶ。二度ひっくり返って映画が終わるわけだ。そうしてビートたけしは呟く。「目が見えたって、見えないものは見えないんだけどなあ」(不正確引用)。

権威や秩序を笑いのめすとき、自分だけが安全な場所に立てば新たな権威や秩序になってしまうというおなじみの構図に、ビートたけしは昔から敏感だったと思う。もっともらしさを笑うこと自体が、もっともらしくなってしまうことへの照れと言ってもいい。

そしてビートたけしを眺めていると、この「権威」や「もっともらしさ」は「虚無」にも置き換えられる。野垂れ死にということに芸人の美学を見いだすたけしは、あの交通事故を経過してその傾向をいっそう強め、映画にもそれが色濃く反映されている。こうしたことは誰しも指摘するだろう。ところが近ごろはさらに、権威を笑う自分自身を笑うことを忘れなかったのと同じく、「野垂れ死にったって、大したもんじゃないんだ、そんなの」とまで気づいてしまったのではなかろうか。死ぬことに頓着するのは美しくない。しかし死ぬことを超えた悟りに頓着するのも、また美しくない。ビートたけしがテレビで昔より凡庸な姿をさらしているとしたら、そういうことなのかもしれない。虚無と思っていたことの底が割れた。しかしそれこそ底なしの虚無だ。そんな地獄のような極楽で、たけしは遊び続けようと決めたのだ、きっと。

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そして、映画への憧憬もまた、そうした虚無にみまわれていると見てはどうだろう。「世界のキタノ」として頂点をきわめ、賞もいくつも取って引っ込みがつかなくなって「なんだかな」と内心ボヤイてもいるタケちゃん。もちろん映画とは作れば作るほど神秘なのだろうし快楽でもあるのだろう(ものごとはすべてそうだ)。黒澤明勝新太郎への尊敬は決して捨てないでいるだろう。それでもなお、特別な領域だった映画ですら権威や秩序やもっともらしさの底を知ってしまい、ましてやもっともらしいセレブの位置などなにより居心地が悪く、どこか倦んでしまった男に、いよいよ底なしの虚無が忍び寄る? 

そうすると、北野武ビートたけしを演じているというのはやっぱり間違いで、ビートたけし北野武を演じているのだ。映画に目がなくて映画の真実が見えているはずの北野武は、実はもとから目が見えるビートたけしだったのだ。しかしだからこそ、最後には自らが躓いてボヤかずにはいられなかったのだ。

人がばっさばっさと斬り殺され、死んでいく。たいして意味はない。虚無。そこには、権威や秩序を斬ってきたたけしの痛快さを重ねることもできるだろう。しかしそのときは、皮肉や虚無という痛快さで乗りきってきたはずの時代と半生、そして映画すらも同時に切り倒されている可能性がある。そうした凄みを、たけしという人はやっぱり湛えている。そういうやりきれない虚無の晴れ姿を、私はあの座頭市に見たように思う。――いやもちろん、こんなのぜんぶ勝手に見た気がしているだけで、本当はなんにも見えていないんだけどさ。