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【2019 輪廻転生】

なぜこんな本を読まなくてはいけないのか


北田暁大責任と正義』(勁草書房ASIN:4326601604。半分まできた。ところが図書館の貸出期限もきた。う〜む、どうしよう。「なぜ本を返さなくてはいけないのか」。考え込む。「俺なんて読み終わるまで絶対返さないぜ。だってちょっとイヤミ言われるだけだろ。あ、でもお前らはきっちり返せよ。次に俺が借りるんだからさ」←規範の他者? 「はて、どういうことでしょう。私などいつも読みたい本はそのまますっと持ち帰りますが、なにか。貸出期限? ああそういえば、家に本が増えてくると図書館の棚に片づけておくことはありますね」←制度の他者? 



周知のように、北田氏は2ちゃんねる的行為の理論的構成にとり組むなかで、アイロニーがロマンチシズムに陥る危険性を指摘した。若手研究者として最近は雑誌での活躍も目立つ。しかも「はてな」に日記まで書いている(参照)。そんなわけで、この人が著書ではどんなことをどんなふうに書いているのか、興味があったのだが……。

第一部 責任の社会理論 第一章 コミュニケーションのなかの責任と道徳 一 問題としての「コミュニケーション的行為の理論」 【1】発話内行為の構造 周知のように、ハーバマスはコミュニケーション的行為の理論的構成にとり組むなかで、(1)発話内行為は行為遂行の最中にあって「当該行為は……である」という高階の自己指示をなしており、》 むむ、こりゃ予想よりずっと堅い本だ(当っても痛い)。東大の先生のマジ論考とはこういうものか。ちょっとたじろぐ(後悔が先に立つ?)。

ところが、やがて現れるのは、言うなれば「悪気はなかったのに責任とらないといけないの」とか「他人を思いやりはする。でも実際に何かするわけではないなあ」といった日常よくぶつかる類いの迷いに近い。同書はそれを延々解きほぐしていくわけだが、それも我々があれこれ悩む手順を案外なぞっている。ただそれを綿密な段取りで基礎工事からやっていくところが違う。汎用性と確実性のある理論にまとめあげるところが違う。そうなるとどうしても、ハーバマス、ルーマン、ローティ、立岩真也といった人の考えを参照し批判していくことになるのだろう。自らの疑問を自らが解消するため、気になるところはことごとくチェックするし、使えるものは何でも使う、という意気込み。論考の見取り図も繰り返し確認する。だからこれは、当人が今考えていることの実演であって、誰かがすでに考えたことの解説では全然ない。



それにしても、我々が俗に「責任」や「正義」という言葉を思い浮かべるのは、今ならたとえば、鳥インフルエンザが発覚したりそれをめぐって経営者が自殺したりというニュースに触れたときではないだろうか。しかし、『責任と正義』はそうした具体的な出来事を取り扱うわけではない。じゃあなんで北田氏はこれほど丁寧に責任や正義について考えるのか。そこがすぐには見えてこなくて、もどかしい気もする。しかしそのときは、そもそもこの本を著わそうとしたのは、社会や関係をめぐる言説があり(いわゆるポストモダンのイメージ)、政治や法をめぐる言説があり(主にリベラリズムのイメージか)、学問の人が誠実になればなるほど巻き込まれざるをえなかったその狭間をはっきりさせたいという、まさに理論そのものの錯誤にかかわる動機だったことに思いをはせる必要があるのだろう(そここそが重要という自覚は、稲葉振一郎『経済学という教養』にも近いと思える)。責任の話から正義の話へと、まだまだ先は長いわけだし。

そういう点では、これを読み通す人はやっぱり奇特だ(著者もそんなふうに書いている)。4900円(+税)も安くない。小金のあるサラリーマンにはそこまでの暇はないし、小暇のあるフリーターにはそこまでの金がない。→ちょっと参照。でも金と暇が有り余っている人にかぎって「そもそもなんで本なんか読むのか」という他者だったりして。ブックレットみたいなものが一緒に出るとありがたいのではないか。いやそれを思うと、「はてな」の日記がその役割を十分果たしているのかも。

ともあれ、我々はたしかに難度じゃなくて軟度が高いワイドショー言説になじんでいるのだけれど、本当に気持ちをすっきりさせるには、こうした本格的な論考が欠かせないということも感じとっている。あとがきで著者は「なぜ人を殺してはいけないのか」の問答に考えこんでしまったことや、9・11の報にあまりの衝撃を受けたことを打ち明けている。我々はきっと、その浅い部分ではなく深い部分で共感できるに違いないと思う。