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【2019 輪廻転生】

ミスティックな感想


ミスティック・リバー』。ショーン・ペン(アカデミー主演男優賞)の顔がまぶたから離れない。独特の形にあいた口。淡々とした演技の刑事役ケビン・ベーコンは濃いとはいえない顔だが、やはり忘れがたい。顔の上半分がホンコンに見えるときがあって。やけに印象深い(というか彫りが深い?)顔というなら、今はケリーだ(民主党の大統領候補)。結論としては「アメリカ人の顔ってなんかヘン」。

日本人なら、その人の顔はその人の背景を(間違っているとしても)容易に語ってしまう。しかしアメリカ人となると、背景にある社会や文化について日本並に詳しいつもりでいるのに、近所の家や店にああいう顔立ちの人が何の変哲もなくたむろしていたりはしないわけで、その落差が奇妙さを生むのだろう。そもそも人の顔をあんなに大写しで見つめるという機会自体があまりないというのもある。映画とはそういうところでおかしな体験だ。テレビは言うと、全般に慌ただしくこっちも情報ばかり気にしているから、顔だけが浮き立つことは映画ほどないように思う。それでも目立ってしまうケリーさんは、やっぱり独特の顔なのか。



ミスティック・リバー』は「いや〜な気分になる映画」と聞き、気になって見てきたが、まあ当っていた(だからこそ貴重な傑作とも言える)。ネット上のレビューを探すと、物語の最終決着をめぐって戸惑いの声も上がっている(参照)。

しかし、登場人物の行為が許せない気持ちと、そんな筋書きの映画を成立させたことが許せない気持ちとは、混じり合いそうで混じり合わない。当たり前? しかし、「この映画の登場人物の行為は素晴しい」と「この映画の成立は素晴しい」の二つなら、堂々と混合されて映画という神秘や奇跡の証にされる傾向もある。しかもそれはまったく非合理とも言い切れない。だとしたら、「こんなイヤな映画を作ったクリント・イーストウッドって、なんてイヤなやつなんだ」さらには「こんなイヤな演技をするショーン・ペンって、なんてイヤなやつなんだ」という感想も、なにがしか正しいことを言い当てている可能性がある。

話は少しずれる。私自身は「あの最終決着は許せない」という感想にはならなかった。では、もしも『ミスティック・リバー』が実話の映画化やドキュメンタリーだったらどうだろう。今度は「あの最終決着は許せない」と言うかもしれない。しかしその使い分けは間違っている可能性がある。

さらに話はずれる。私の人生はどうだろう。許されない人物の許されない行為がいくつか重なったのに、結局「こんな私の人生が許せないのです」という感想になったとしたら。それも非合理とは言い切れない。



私たちは、映画の何を、事実の何を、許さないつもりなのか。