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【2019 輪廻転生】

虚構の果てのサウンド


こういうところに私の世代性が出るのかもしれないが、気になって購入にまで至った久々のCDは、坂本龍一の新作『CHASM』。通常のアルバムとしては95年『スムーチー』以来らしい。いかにもだが「虚構の果てのサウンド」というフレーズを与えてはどうだろう。楽器や人声をはじめ、人工という虚構、自然という虚構をいくつもトラックに振り分け、民族の虚構や平和の虚構もまぶしつつ、きれいにミックスしていった果ての音楽。

「虚構の時代の果て」とはもちろん、オウム真理教を考察した大澤真幸の著書名だ。大澤真幸は、1972年の連合赤軍事件までを理想の時代、それ以後を虚構の時代と呼び、その果てに95年の地下鉄サリン事件を位置づけている。

さて私が思うに、虚構の時代をやっていくにもいろいろ技法が求められるはずで、その究極の一つがサリンだったのかもしれないが、坂本龍一の音楽もまた、この時代の際立って良質なプロダクトだろう。私たち全体も、どちらかといえばサリンよりはそっちの製造技法を真似つつ身に付けつつ、虚構の果てさらには果ての果ての9年間をどうにか持ちこたえてきたのではないか。要するに、サリン事件という突出した事件ばかりに「虚構の時代の果て」を代表させなくてもいいと思うのだ。

1曲目『undercooled』の朝鮮語ラップがやはり一番印象に残った。たとえば欧州の人なら、フランスであれドイツであれイタリアであれ、自国から見た他国は、きっと同一の文明を基盤にしたパラレルワールドみたいな存在なんじゃないだろうか。でも私たちは、戦後長いあいだ日本という現実とアメリカという理想だけでやってきて、パラレルワールドというなら本来どおりSFでしかなかった。ところがここにきて、日本みたいだけど日本ではない実際に触って確かめられる韓国という世界が隣に並ぶようになった。これは現代を生きる楽しみのひとつだと思っている。中国語版「鉄腕アトム」をテレビCMで聴いた不思議さもそのようなものだった。そこからみれば戦前のアジアは(もしかしたら戦後のアジアも?)私にはちょっと虚構だったかもしれない。……まあ何が言いたいかというと、案外「現実は虚構より奇なり」ということ。そもそも9・11以降は「虚構の果ての新しい熾烈な現実」と捉えるほうが一般的だろう。

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さてその9・11を目の前で見た坂本龍一は、すぐさま「非戦」の人になった(参照)。今回の歌詞もそうした主張は明らか。はっきり言えば、自爆テロへの非難より反テロの戦争への非難だ。ただそれはどこか虚構の歌詞、それどころか理想の時代の歌詞という気がしないでもない。

グローバル化した政治経済文化の中心であるニューヨークに住む坂本龍一は、どちらかといえばWTC(世界貿易センター)の側にいたのであって、そこに旅客機で突っ込んだ側にはいなかった。もちろんそんなことは踏まえたうえでの非戦の主張に決まっている。しかしたとえば、そうしたグローバルな支配と無関係ではない「輸出禁止商品」の印がこのCDジャケットの裏にも小さく記してある。当然「逆輸入禁止」法制化の話が思い浮かぶ。なんというか、『CHASM』は爆弾テロと同じく流通テロにもちゃんと向き合ってくれるのかい、なんて皮肉を言いたくなってしまうのだ。「World Citizen」と名付けられた曲もあるが、それからイメージするのも、どうだろう、むしろマンハッタンやWTCだったりしないだろうか。

おまけに六本木ヒルズのテーマ曲までちゃんと入っている。まさか自爆テロの側に「標的にどうぞ」というつもりではあるまい(そうであってももちろん困るけど)。いやいや、これはべつに坂本龍一を批判しているのではない。六本木ヒルズが虚構の時代の果てにそびえる城ならば、私もまたその城下の隅っこでその調べを3千円払って味わう側に一応いるのだから。ジェット機を乗っ取って高層ビルに突撃する仲間にはあまり入りたくないが、ジェット機に突撃される高層ビルで給料を稼ぐ仲間に入りたくないとは、必ずしも言えないのだから。でもCD逆輸出禁止の法制化では、坂本龍一とリスナーは笑う側と泣く側に分かれるのではないか。まったくその通り。しかし実は多くの人が、あわよくば自分も笑う側に回りたいと切望し、人によってはすでに笑う側に回っていないともかぎらない。「逆輸入禁止で笑うやつに、それで泣くオレの気持ちがわかってたまるか」とぼやく私。ではその私は、自爆テロを受けて死ぬ人の悲惨だけでなく、自爆テロに行って死ぬ人の悲惨のことが、いつも本当に念頭にあるだろうか。

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地下鉄サリン事件の裁判でオウム真理教の麻原教祖の判決があした出る。あの事件、発生当時はどう感じていたっけ。サリン事件は連続幼女殺害(宮崎勤被告)などとともに「私の時代の事件」と受けとめる人が少なくなかった。でも私はそうした切実さを覚えた記憶がない(私は一応新人類世代か。今や化石ような新人類)。虚構の時代すなわち自覚的に過ごした80年代等の果てとして、あのオウムやこのサリンがあるといった直観はなかった。今もべつにない。

それに比べて9・11はどうか。まあこれだって見物人にすぎなかったのだが、それでもサリン事件と違って、自分の日常と完全にかけ離れた話とは思わなかった。自爆テロを受けた側についても、実行した側についても。

オウムの信者たちは、なんらかの個人的な困難がやがて生存の困難や危機感へと転じ(または無理やり転じさせ)、その抵抗や解消のためにサリンテロを行った――ざっとそんな見方に無理はないだろう。でもその個人的な困難というのは、なかなか実感できない。それに対して9・11以降のテロでは、その元になっているらしき困難が、私たちとまるきり無縁ではないように思う。今の日本を覆っている経済の困難がどんどん熾烈になっていって現れる、生存の困難として共感できるように思う。いや婉曲的に言うことはない。要するに、耐えがたき貧困の腹いせに六本木ヒルズに火でもつけるようなテロなら、私たちも想像できるではないか。貧困の腹いせに(右翼の資金源にではなく)ヤフーBBの顧客データを盗むようなことでもいい。私にとって他人事でないテロと言うなら、そういうものになる。そこへいくと、地下鉄にサリンをまくというのは、やっぱり少し想像しにくい。(どっちが正当かという話ではない。だいいちどれも「間違っている」と言うしかないだろう。)

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ちなみに――。95年の『スムーチー』も最近聴き直していたところだったのが、これも同等に「虚構の果てサウンド」の感あり。私たちは95年にはすでに行き着いた果てのどこかにそのままずっといるのだろうか。いちばん好きなのは、ピアノと弦がシンプルな旋律を奏でる「BRING THEM HOME」。あるレビューによると、難民を故郷へ帰してという願いが込められているらしい。短調からいったん長調に変わるがまた短調に戻ってしまうところに空虚さを感じるといったことも書いてあり、なるほどしみじみしている場合じゃないのかと思った。

95年は、地下鉄サリン事件阪神淡路大地震の年であるほかに、ウィンドウズ95の年でありインターネット元年とも言われた。『スムーチー』にも「電脳戯話」という歌がある。《僕らは意識の旅に出る あの海を渡り波に乗る》(作詞 高野寛)。いかにもインターネットの時流に乗ったふうだったが、いい感じでもあった。その後インターネットはあまりに速いスピードでそれこそ虚構の果てまで達した感があるが、この頃だけはつかのま理想の時期だったかもしれない。ただ私たちは、むしろ虚構の果てのことのほうがよく馴じんでいて、インターネットも今みたいにあらかじめ煮詰まっているものとして扱うほうが、得意かもしれないけれど。

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もう一つちなみに――。今回の『CHASM』は全体のところどころに雑音をわざと混ぜてある。我が家のアンプはオーディオ理想の時代の名残をとどめるサンスイ製だが、寿命で半壊したあと謎のように自然治癒したものの、それでも不調の日にはアナログノイズを発することがあり、坂本龍一の虚構の果てなるデジタルノイズとの区別がつかない。まあオーディオの音なんてそもそもみんな虚構かな。

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CHASM ASIN:B00015BL2K
スムーチー ASIN:B0000073JD
虚構の時代の果て ASIN:4480056734