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【2019 輪廻転生】

論争の果てに何かあるか


1月23日にも触れた『無限の果てに何があるか』(足立恒雄)を読んで、数学という思考はあまりに特異な位置にあるのだと改めて実感。その感動についてはまたいずれ。きょうはそこから派生して考えたことをひとつ。

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数学の証明とは何かという話になると「公理系」というのが必ず出てくる。「ある点からある点に線を引ける」「直角はどれも等しい」といった当たり前みたいな条件を「公理」として取り決め、それを基にして図形のさまざまな法則を厳密に証明していく、そうした枠組みのことだ。だから公理系はいくつでも想定できる。その好例として「ユークリッド幾何学」と「非ユークリッド幾何学」がしばしば紹介される。我々はふつう「三角形の内角の和=180度」と考える。このときは「ユークリッド幾何学」という公理系に立っているのだ。しかし、たとえば北極・シンガポール・ナイロビを地表で結んだ三角形ならどうだろう。内角の和は180度を超えるはずだ。つまり、三次元的に曲がった世界では公理系を「非ユークリッド幾何学」に転じる必要がある。

この異なる二つの幾何学は、ニュートン力学アインシュタインの力学(相対性理論)それぞれの拠り所になったとされる。加えて、力学の大きな理論変更としては量子力学も出現した。ニュートン力学がたとえば野球のボールや自動車の動きをほぼ正確に計算できるのに対し、銀河や光といった巨大あるいは高速のスケールでは相対性理論を用いる必要がある。逆に、原子核や電子といったごく小さいスケールでは量子力学が成り立っている。つまり物理学では、対象となる物質や現象のスケールが変わることで、それを扱う数学に公理系の変更が要請されてきたということだ。(相対性理論量子力学の違いが幾何学の公理系の違いに当るのかどうかは不明)

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さて、こういうことは経済学や戦争をめぐる議論においても言えそうだ。ふとそう思いついた。

経済学では、まるきり初歩的な例だが、小さい市場で売り買いする経済と、国や世界の規模で揺れ動く経済には、それぞれ別の数学・別の理論を当てはめる。これも公理系の転換みたいなものだ。それが「ミクロ」「マクロ」とスケールで区分されるのはなにか象徴的。あるいは、マルクスという人は、「資本主義が成り立つ」という絶対の公理系が支配していた経済学に、「資本主義が成り立たないとしよう」と別の公理系を対置しようしたと言ってもいいだろう。

「戦争は避けられない(平和はない)」「戦争は避けられる(平和はある)」という根深い対立も、まさに相異なる公理系であるかのように感じられる。つまり、戦争をめぐるこうした見解は、議論によって白黒つけるべき課題というより、むしろ他の具体的な命題を証明するための公理として最初から要請されているように思えるのだ。たとえば「自衛隊イラク派遣は正しい」「北朝鮮への制裁は正しい」といった具体的な命題が、「戦争は避けられない」または「戦争は避けられる」どちらの公理系に拠るかによって、真にもなれば偽にもなる。たとえ話で言うなら、政治の幾何学として「イラク×アメリカ+日本=平和」と「イラク×アメリカ+日本=戦争」二つの公理系が共に成立している、ということになるか。

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「論争って空しいね」と言いたいのではなくて、ここからくみ取れることがある。経済や戦争について、ただ一つの原理、ただ一つの公理系で説明しつくすのが無理だと感じられたときは、べつに全部を説明しつくす必要も義理もないということだ。スケールや視点の変化に応じて、別の経済論や別の戦争論を異なる公理系として使い分ければよい。当てはまる部分だけ当てはめて、ほかの部分との整合性には少々目をつぶる。そうやって難しい現実が納得できるなら、べつに不誠実でもない(数学の証明では無理だろうが)。たとえば財政とか金融とかあるいは安全保障とかを考えるとき、家の財布と国の財布、あるいは個人の殴りあいと国家の殴りあいでは、どうしても異なる原則や理屈があるように思える。誰しも実感しているところだろう。

正しい不平等。正しい戦争。そういうものが成立するスケール(共同体)がありうることに、目をそらすのはおかしい。同時に、それがどうしたって成立しないスケール(個)がありうることに、目をそらすのもおかしい(保留)。

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さてさて、政治や経済の議論を公理系として眺め直すのであれば、数学に絡んでぜひとも踏まえておきたい事実がもう一つある。それは「数学は自然科学ではない!」ということだ。数学の証明は公理系を踏み外さないかぎり完全に永久に正しい。それは数学というものが、自然現象とはなんら関係ない、まったくの仮想世界における思考だからだ。…いや私ではなく足立恒雄氏がきっぱりそう言う。

ということは…。そう、他のあらゆる科学は完全でも永久でもない。地球のことも生物のことも、空間のことも時間のことも、我々は数学をそこに当てはめることで現象を解釈し納得している。しかし宇宙が本当にそうなっているのかというと、その保証はない。少なくとも隅々まで実際に確かめてみるまでは。ミクロやマクロの経済学も、戦争や平和の思想もそうだし、相対性理論量子力学もそうだ。これらの理論は、物質や社会のふるまいを計量し予測する道具として磨き抜かれ、かなり実用的でもあるけれど、これらの対象が本当に数学的に生成され構成されているということを意味しない。いやそれどころか、このリンゴやあの火星、あるいは現実の不景気や現実の戦争が、そもそもどのような数学にも法則にも従っていないという可能性すらある。そうでないとは誰も言えない。

だから何だ、ということにもなるが、それもまた改めて。

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正月、古い知りあいに「東京で毎日どんなふうに暮らしているのか」と聞かれた。どうにも答えがたく「ああ、だったらウェブの日記読んでもらえれば…」と言いそうになるが、でも「こんな暮らしです」というわけにもいくまい。いや案外これで生活の要約だったり…。何だろうか、これは。生活の果て?