東京永久観光

【2019 輪廻転生】

大問題

イラク北部で日本の外交官が殺された。私はまずこのことが日本国民としていくらか恐ろしい。それは、私の住む首都東京に対するテロの警告がまるきり脅しではないと感じられるからだ。あるいは、そのうち私も日本の旅券を持って物見遊山で中東まで出かけないとも限らないからだ。他人事とは言いきれない。●しかし、これを、私が家族の一人として悲しんだり怒ったりしたかというと、ニュースを見ている時を除けば、そういうことはない。そういう意味では他人事だ。●では、この事件を、私は日本国民の一人として悲しんだり怒ったりしたのだろうか? どうだろう? あるいは、いわゆる「イラクに派遣された自衛隊員がゲリラの攻撃で死亡した」としよう。私はそれを日本国民の一員として悲しんだり怒ったりするのだろうか? そうするのが自然なのだろうか? それは何故だろうか?●一方、今回の戦争でイラク国民をはじめとして大勢の人々が殺されていることについて、私は戦争を支援した日本国の国民として責任を感じたり反省したりしているだろうか? そして、それは自然なのだろうか? ●仮に一方が自然であるとしたら、同じ根拠によって、もう一方も自然であるべきなのか? ●自分の感情くらい自分で判断できるだろう、と言われるかもしれない。たしかにそれを隠すような態度はイヤらしいし無益だ。ただその感情は日本国民としてなのか、自然であるのかなどと問われると、なんだかわからなくなる。べつに挑発や皮肉ではない。単純に首をひねっている。

●すこし古い話に飛ぶ。中国西安の大学の文化祭で、日本の留学生らがある寸劇を見せたところ、それが中国を侮辱していると捉えた中国の学生たちが怒り、大規模な抗議行動が起こって、一部の学生が無関係の日本の留学生に暴行した、という事件があった。だいぶたってから朝日新聞が詳しい報告を掲載した。http://www.mayq.net/asahi/031128.html=ログ転載= ●この記事を読んで私に巻き起こった感情は、今回の外交官殺害で巻き起こった感情と似ていると思う。(イラク戦争を支援したことの是非、この寸劇を見せたことの是非は、今は問わないとして)●この西安の事件は、私には他人事ではないのだろうか? もし他人事でないとしたら、それはつまり、私が日本国民の一人としてこの事件を受けとめている、ということになるのだろうか? そうかもしれない。もし私がイラク国民だったなら、この事件はただ可笑しいか通り過ぎるか、その程度だろうから。

●そこへもってきて、またまた気になるニュースが出ていた。トヨタ自動車が中国で出した広告が「中国人を侮辱している」として騒動になっている、というのだ。これも朝日。http://www.asahi.com/international/update/1204/002.html ●記事によれば、広告写真の1枚は、2頭の石の獅子(中国の象徴とされる)がトヨタ車に敬礼などをするポーズをとり「尊敬せずにはいられない」とのコピーがついている。もう1枚は、人民解放軍のものに見えるトラックをトヨタ車が牽引している。●こんな騒動、ただ笑って通り過ぎればいいじゃないか。自分でもそう思う。でもそうならない自分がいる。たとえば海外でトヨタ車やウォークマンを目にしたりその評判を耳にしたりすると、べつに私が作ったり売りつけたりしたわけではないのに、なんとなく誇らしいあるいは恥ずかしい気になるのと同じく、この騒動もまたちょっとだけ他人事でなく感じてしまう。これが韓国ヒュンダイ社の広告だったら、私はなんとも感じないのだろう(中国の人もさほど気にしなかったかもしれない)。したがって、この騒動への関心が、トヨタがたまたま日本企業であり、私がたまたま日本国民であることから発しているのは間違いない。では、そのような関心はすべて錯誤なんだろうか? それともいくらか正当なんだろうか?

●こういうことにまつわる違和感は昔からずっと変わらない。中国や朝鮮に対する侵略や支配の過去を、私は「単に」忘れてはいけないのか。それとも「日本国民として」忘れてはいけないのか。どうなんだ? 

●さてさて、疑問ばかり投げかけておしまいだ。ここにあげた国民意識へのこだわりをナショナリズムと呼ぶなら、私のナショナリズムには、そうとう厄介な錯誤が含まれているのだろう。しかし、私のナリョナリズムは、それほど単純な要素ばかりで構成されているわけでもないと思う。それをもっと考えたい(そう言うばかりで、いっこうに考えた形跡がない)。

●では問題です。「?」はいくつありましたか?