東京永久観光

【2019 輪廻転生】

日記のふり

脳科学ルネッサンスともいえる活況を呈しているという。それにもかかわらず、客観的に測定できる脳と、主観的に感じとれる意識とが、どう関係しているのかは皆目わからない。かつてニュートンは、太陽や月の運動とリンゴの運動とを初めて同一の法則で説明したが、そのような「第一原理」がまだ見出せない。だから脳の研究はまだ錬金術だ。――茂木健一郎氏は、『意識とはなにか』(ちくま新書)で、これまで通りこうした前提に立つ。ASIN:4480061347 ●意識という謎は科学の王道では解けないのだ。それどころかいっそう道に迷わせる。茂木氏はかねがねそう疑ってきたようだが、今回いよいよはっきり引導を渡した印象。しかし、だったら意識を解き明かすオルタナティブな道はどこにあるのか。1994年、電車に乗っていた茂木氏は、ガタンゴトンという音を聞きながら、この音の感じそのものは、周波数をいくら分析しても触れられない種類のものであると気づき、衝撃を受ける。そこから意識を解く新しい鍵としてクオリアという論点を取りだした。ではクオリアから意識の正体へ、いかにして向かえばいいのだろう。これとて、もちろん完全に薮の道だ。それでも同書が手探りする新しいアプローチは、具体的であり、すこぶる興味深い。私なりにポイントを2点だけ――。

●1点は「同一性」というアプローチだ。我々が〈あるもの〉が〈あるもの〉であると認知するのはどういうことかという問い。久しぶりに会う友人が当人であることをどうやって知るのか。外国で両替した紙幣を本物とみなすのは何故か。こうした問いを多角的に分析していくと同時に、脳神経系のネットワークがきわめて複雑できわめてダイナミックに変化しているにもかかわらず、我々はふしぎに個物の同一性を維持しているという事実に注目する。この認知における同一性を、まあ結局のところ、クオリアがなんらか担っているのではないか。この方向へ、茂木氏は一歩大きく踏み出していく。

●もう1点は「むずかしい問題やさしい問題」というアプローチ。脳科学はたいてい、科学の王道たる物理主義を用いてなされている。脳のどの部位がどの機能を担っているのか、どのような刺激に対してどのように反応するのかといった研究だ。これは、脳と心の関係をいわば「やさしい問題」として扱うことだと茂木氏は言う。それに対して「意識とは何か」「クオリアとは何か」と問うのは「むずかしい問題」だと位置づける。●一例として、子供のころ帰宅して口にする「ただいま」がとても不思議に感じられたという話が持ち出される。「ただいま」の声に伴ってわき起こるこの感じ、すなわち「ただいま」のクオリアや意味とはいったい何なのか、という問い。これが「ただいま」を「むずかしい問題」として考えることだ。その一方、「ただいま」と自分が言えば、祖母は「おかえり」と応じておやつを出してくれるし、猫はニャーと鳴いて寄ってくる。これらを「ただいま」の意味であるとするのが、「ただいま」を「やさしい問題」として扱うことだ。●そこから眺めると、我々は言語を「やさしい問題」として処理することで生活をスムーズに送っている。しかしときには、言語を「むずかしい問題」として、すなわち「ただいまとは何か」「私とは何か」「リンゴが赤いというときの赤いとは何か」と問い詰める。そうしてこのアプローチは、我々は「むずかしい問題」を「やさしい問題」として扱う「ふり」ができる、そもそも「ふり」をすることは人間の本質なのだ、というところまで行き着く。また、チューリングテストは「やさしい問題」のみを問うたのだ、コンピュータは「ふり」ができない、といった分析にもつながる。

●自分なりに考えてみたことも、少し。●たとえば今リンゴAを食べているとしよう。そのときは「赤い」「重い」「つるつる」「サクッ」「甘い」といった五感の知覚や、「青森産だ」「歯茎は大丈夫か」「アップルコンピュータ」といったさまざまな連想が立ち上がってくる。「リンゴAのクオリア」と言うなら、これら全般が複合された「感じ」を指すのだろう。そして、そのクオリアは、そのとき働いている脳神経系のネットワーク全般に随伴していると考えられる。さて、脳神経系のネットワークは日夜じわじわ変動しているのだから、たとえば1年後に別のリンゴBを食べるときは、リンゴBの知覚が固有なのはもちろんのこと、立ち上がる連想もいくらか違っているはずだ。つまり、いくらか変化した脳神経系のネットワーク全般に随伴して、いくらか変化した「リンゴBのクオリア」が生じるということだ。さらに、心の中だけでリンゴを思い浮かべる時の「リンゴのクオリア」というものがあって、それは「リンゴAのクオリア」「リンゴBのクオリア」のどちらにも大いに関与し、かつどちらとも微妙に違うと考えられる。●仮に「リンゴのクオリアが、リンゴの同一性を担う」とした場合、どのクオリアが何と何の同一性を担っているのか。同書で厳密に明らかになったわけではない。

●もうひとつ。「むずかしい問題/やさしい問題」のアプローチは、「意識の正体」や「クオリアの正体」との直接の関係にはなかなか遠い。しかし、「意識とは何か」を考えることは、その問いの正体を分析することに等しいとも思われるので、ともあれ「脳と心の関係をむずかしい問題として問うことだ」と言い換えができたことは、とても有意義だ。●さらに面白いことに、このアプローチは、「意識の正体」以上に「言語の正体」すなわち「言葉を使うとはどういうことか」の分析に、はからずも大きな成果をもたらした。これはじつに素晴しい。●しかもこれは、こうして文章を書いている私の気持ちも、うまく言い当ててやしないか。自分で日記を書いたり、他人の日記を読んだりするとき、たとえば政治や経済の問題を、あるいは小説や映画の問題を、ときに「むずかしい問題」ときに「かんたんな問題」として行きつ戻りさせている。そこにある言葉の意味をどうしても問うことになるが、そのときも、他人の関心や文脈に合わせる「ふり」をしたり、あるいはそのつど多様な「私」の「ふり」をすることで、やりくりする。そうすることで、なにかを述べる「ふり」や、なにかがわかる「ふり」ができる。言葉を交わし、言葉を伝えるとは、そういうことだったのだ。

●参照:茂木健一郎『心を生みだす脳のシステム』感想 ●(非)参照:悲しきラーメン