東京永久観光

【2019 輪廻転生】

ローテク不気味

黒沢清監督『ドッペルゲンガー』を見てきた。以下ネタバレ注意――●役所広司が演じる主人公の早崎は、ドッペルゲンガーとして出現してきた自分の分身を、いろいろあって、殺してしまう。早崎の性格が急変するのがその直後だったなら、筋書きとしては収まりがいい。早崎の分身は、早崎本人の抑圧された部分を体現していたようだから、本人が分身を殺すことで、分離していた人格が統一され一皮むけた新しい早崎が誕生した、とかなんとか、解釈ができる。しかし実際はそうではない。早崎がにわかに暴力的で直接的な行動を取りだすのは、ずっとあと。鼻を補強して顔立ちが異様になり、自家用車を運転し、永作博美演じる由佳がひとり待つところに現れた段階だ。●この映画では、黒沢監督の特技だろうか、誰かがふいに殴りかかるといった生理的な驚きには、なんども出くわす。やがて、筋書き自体がいわばガンと殴られたように転倒していく。その変調は、ちょうど冒頭の重低音ノイズのようであり、嫌らしい振動としてじわじわ降り積もってくる。こうした効果がこの映画のポイントだろうが、なかでも、今あげた早崎の豹変は、最も唐突でそれゆえ最も不気味だったのだ。●だいたい、この早崎は、早崎本人で間違いないのか? それとも殺された分身が蘇って追ってきたとみなすべきなのか? 分身の持っていた暴力性にあふれる一方で、本人特有の上品さも捨ててはいない。偽善でも偽悪でもなくなった正直さが新しい人格にもみえる。●さて、そうなると、本人が分身を殺した場面に戻って、あの場面はわざと紛らわしく演じ分けていたようだが、殺されたのは分身ではなく、もしや本人だったのでは、という疑惑も生まれる。●さらには、ユースケの演じる君島が、川底に落ちたにしては元気に再登場したり、そのユースケにしたたか殴られたはずの早崎と由佳が、その直後にそろって草原を走っているのも、どうも怪しい。これらどれもがドッペルゲンガー的ではないか。最後は、機械仕掛けの人工人体までが、壊されたとたんに、自らの意志のようにして息を吹き返す(そして自殺)。●というわけで、『ドッペルゲンガー』はもちろん「よくわからない映画」という括りになろう。しかし、狙いすまして混乱や逸脱を生じさせたというふうではない。だから深読みで謎を解いても徒労かもしれない。しかし逆に、ことさら不明瞭に投げ出して不満をかき立ててやれとか、そういう意地悪だとも思えない。かといって、作る方も見る方も「何も悩む必要なんかない、好き勝手に楽しもうぜ」というB級精神だけでいけるわけでもないだろう。ともあれ、それらがあいまって、全体にぼんやり際立たない不気味さをたたえている。「わからない」にもいろいろタイプがあるはずだが、うまく言えない。

高橋源一郎君が代は千代に八千代に』には、日常の出来事や思考がまるで雑巾のようにおぞましくなっていくのを止められない、安っぽくてへんな愉快さがある一方、ところどころ不可解な不気味さがぞぞっとよぎってくる瞬間があった。あえて似た感じを探すなら、これか。

●それにしても平日の朝から映画を見にいくやつ。やけにすいていた映画館。私の前に一人。私の後ろに一人。それきり。あれ、もしかして後ろにいたのは…。